第11話 書いておらぬことは
この館では、誰も口約束をしない。
朝、厨房で肉の数を数えた男が、数え終わるとその場で紙に書いた。書いて、隣の女に渡す。女は読んで、下に自分の名を書き足した。
王都なら、証人を三人立てて口で言えば済むことだ。
わたしはそれを、扉のそばから見ていた。
誰も、わたしに気を遣って手を止めない。館に来て四日、これにはまだ慣れない。
厨房は熱かった。竈が三つ並び、そのうち二つに火が入っている。床から熱が上がってきて、靴の底が温い。
焦げた小麦の匂いと、酸い匂いが混ざっていた。乳を発酵させたものらしい。王都では嗅いだことのない匂いだ。
男が振り返り、わたしに気づいた。
彼は手を止め、卓を回り込んで正面に立った。それから口を動かした。
「朝のぶんは終わりました。昼のぶんは、まだです」
わたしは首を傾けた。彼は待った。待って、それから紙を一枚こちらへ寄越した。
紙には、肉の重さと数が書いてあった。下に彼の名がある。
読んで、返した。男はそれを受け取って、また卓に戻っていく。
説明もしなければ、気の毒がりもしない。用があるから紙を出し、用が済んだから戻った。それだけだった。
三日で、この館の仕組みが分かってきた。
買い付けも、当番も、貸し借りも、全部が紙と署名で回っている。
誰かが「言った」「言わない」で揉めることがない。揉めようがない。書いてあるか、書いていないかのどちらかだ。
王都では逆だった。
書いてあることは控えにすぎず、言ったことが本物になる。だから貴族は証人に金を払い、記憶の質を買う。
ここでは、記憶に値段がつかない。
理由は、三日目にノエルが厨房で聞いてきた。
この土地には三つの隣国が接している。市には六つの言葉が集まる。口で交わした約束は、通訳を挟んだ時点で必ずどこかが食い違う。食い違ったまま荷が動けば、次の年から取引が来ない。
だから二百年前、当時の辺境伯が決めた。この領地では、書いたものを主とする。
わたしのために作られた決まりではない。
たまたま、そうだった。
たまたまであることが、かえって確かだと思った。優しさは撤回できる。二百年続いた仕組みは、撤回のしようがない。
「ここでは、書かねば何も起きぬのでございますね」
ノエルがそう言ったのは、四日目の朝だった。
彼女は洗濯場から戻ってきたところで、腕まくりのまま、正面に回ってから口を開いた。
「洗い物の数まで書けと言われまして。あたくしが数えて、あたくしの名を書けと」
ノエルの指に、まだ石鹸の泡が残っている。
「王都では、侍女が名を書く紙などございませんでした」
それから彼女は、少し言い淀んだ。
言い淀むとき、この人は一度唇を結んでから開く。
「……お、奥様」
十五年、お嬢様だった。
ノエルは自分の言い直しに耳を赤くして、前掛けで手を拭いた。拭く必要のない手だった。
「申し訳ございません。昨日から、何度も間違えております」
わたしは紙に書いた。
『どちらでも』
ノエルは紙を読んで、首を横に振った。
「いいえ。ご婚礼は済みました。書いたものが本物になる土地でございますから、あたくしも、書いてあるとおりに呼びませんと」
真面目な顔だった。
わたしは、その言葉を二度読んだ。
書いてあるとおりに呼ぶ。この人は三日で、この土地の理屈を自分のものにしていた。
十五年、この人はわたしを「お嬢様」と呼んだ。
呼ばれていたのは音ではない。ノエルの唇が作る、あの三つの形だ。
その形が、変わる。
喉の奥がざらついた。もらったもののはずなのに、何かを一つ失った気がした。
午後、館の裏手を歩いた。
風が強い。外套の裾が持っていかれる。
壁の陰に入ると、急に静かになった。静かというのは、風が肌に当たらないという意味だ。
石垣の下に、小さな祠のようなものがあった。
白い石を積んで、上に木の板が渡してある。板には文字が彫ってあった。この国の字ではない。
ノエルが追いついてきて、教えてくれた。
「山向こうの方々の、神様だそうでございます。この土地には、いくつも神様がいらっしゃると」
いくつも。
王都には、一つしかない。
大神殿の神は、声を聞く神だ。祈りは声に出さねば届かない。黙って祈るのは祈りではない。
だからわたしには、洗礼名がない。
この土地の神は、何を聞くのだろう。
板の文字を、指でなぞってみた。彫りが浅く、風で角が丸くなっている。
読めない。読めないものに向かって、何かを願ってみた。願いは形にならず、途中で消えた。
小神殿の前を通ったとき、声詠みが出てきた。
婚礼の日に立っていた男だ。年は四十ほどで、この土地の生まれらしく肩幅が広い。
彼はわたしを見ると、階段を下りてきた。
わたしは身構えた。
王都では、神殿の者に会うと必ず同じことになる。名を持たぬ者は、と始まって、慈悲深い顔で憐れみが続く。憐れみの終わりに、寄進の話が出ることもあった。
声詠みは、階段の三段目で止まった。
その位置なら、彼の顔とわたしの顔の高さが合う。
「奥様」
彼は口を開いた。
「先日は、よい宣誓でございました」
それだけだった。
彼は一度こちらの返事を待ち、待ってから階段を戻っていった。
わたしは、しばらく動けずにいた。
言われなかったことのほうが、多かった。
名の話をされなかった。祈りの話もされなかった。
気の毒だとも、神は見ておられるとも、そのうち授かりましょうとも言われなかった。
よい宣誓でございました。
あの日、わたしは一言も発していない。
発していない人間の宣誓を、あの人は「よい」と言った。
王都の大神殿なら、あれは宣誓とは呼ばれない。代弁は成立の手続きであって、宣誓そのものではないからだ。
この土地の声詠みは、そう区別しなかった。区別しないまま、よいと言った。
夕方、部屋に戻ると、卓の上に紙が置かれていた。
テオドールの字だった。角ばっていて、線が細い。書き慣れた者の字だ。
『奥様
明日、書記官房までお運びくださいませ。
昼の鐘の後、いつでも結構でございます。
テオドール・ブラン』
昨夜、彼は「明日」と言った。
その明日は、もう過ぎている。わたしが行かなかったからだ。
行けなかった。何をしに行くのか分からず、聞き返す手立てもなく、そのまま三日が過ぎた。
テオドールは催促に来なかった。
代わりに、紙を置いていった。
紙なら、読める。
紙なら、いつでも読み返せる。角度も、光も、速さも関係ない。
わたしはその紙を、二度読んだ。
三度目を読もうとして、指が止まった。
いつでも結構でございます。
この一行を、あの人はなぜ書いたのだろう。
昼の鐘の後、いつでも。
時刻を切らないということは、こちらが行くまで待つということだ。三日待って、催促の代わりに待つと書いた。
窓の外で、風が強くなっていた。
硝子が細かく震えている。指を当てると、その震えが伝わってくる。
冬が近いのだと、館の者が言っていた。
明日、書記官房へ行く。
何のためかは、まだ分からない。




