第12話 控えておきましょう
書記官房の扉を開けた瞬間、壁が消えていた。
消えたわけではない。壁という壁が、紙で埋まっていた。
天井まである棚に、帳面が横に寝かせて積んである。背表紙に年号が書かれていた。それが左から右へ、上から下へ、隙間なく続いている。
部屋の真ん中に長い卓があり、そこにも帳面が開いたまま何冊も置かれていた。
乾いた紙の匂いがした。埃とは違う。少し甘い。
窓が二つあり、どちらにも硝子が入っていた。この館で硝子の入っている部屋は多くない。紙を湿らせないためだと、後で聞いた。
テオドールが顔を上げた。
彼は卓を回り込み、こちらの正面まで来てから口を開いた。背が低いので、立っていても目の高さが近い。
「お運びくださいまして」
ゆっくりだった。
彼は最初から、この速さで喋る。
わたしは紙を出そうとした。三日行かなかったことの詫びを書くつもりだった。
テオドールは、それを待たずに続けた。
「お忙しゅうございましたでしょう。婚礼のあとは、どちらの家でもそうでございます」
三日の説明を、彼が先に作った。
彼は棚の前まで歩き、こちらを振り返った。
振り返るとき、彼は必ず一度止まる。歩きながら話さない。
「これが、この領地の控帳でございます」
棚を示す。
「二百年ぶん、ここにございます。買い付け、売り渡し、貸し借り、境界、婚姻、相続。すべて」
彼は一冊を抜き取って、卓の上で開いた。
紙が薄い。文字が細かい。日付、品目、数量、両者の名。名の下に、それぞれの署名がある。
「王都では、控帳は控えでございます」
テオドールは、そこで一度こちらを見た。
「この領地では、控帳が主でございます」
わたしは、その二つの文を続けて読んだ。
同じ国で、同じ紙で、扱いが逆になる。
「口で申したことは、この領地では効きませぬ。三人おろうと、十人おろうと、書いておらぬものは、ございませんでした」
書いておらぬことは、ございませんでした。
彼はその言い方を、まるで挨拶のように使った。
「なにぶん、言葉が通じませぬので」
テオドールは棚を撫でながら歩いた。
撫でる、というより、指の腹を背表紙に添わせている。歩く速さと同じ速さで、指が滑っていく。爪は当てない。
「東門の市には、六つの言葉が参ります。通訳を三人立てても、三通りに訳されまして」
彼は棚の角で立ち止まり、こちらへ向き直った。
「数だけは、どの言葉でも同じ形をしております。ですから、数を書く」
指が止まったのは、古い年号の並ぶ一角だった。
そこだけ背表紙の色が濃い。手垢だろうか。ほかの棚より、よく触られている。
「そちらは、古い年の分でございます」
テオドールはそう言って、指を離した。
わたしは紙に書いた。
『では、この領地では、口のきけぬ者も不利になりませんか』
テオドールは紙を受け取り、老眼らしく少し離して読んだ。
読み終わって、顔を上げた。
「不利になりませぬ」
それから、少し考えて、言い足した。
「むしろ、口の達者な者のほうが、こちらでは損をいたします。喋ったぶんだけ、書かねばなりませぬので」
わたしはもう一枚、書いた。
『王都では、逆でした』
テオドールはそれを読んで、しばらく紙を持ったままでいた。
「存じております」
彼はその紙を、卓の隅に置いた。捨てなかった。
棚の一角で、若い男が屈んでいた。
帳面を床に積み上げて、年号を確かめながら並べ替えている。埃で袖が白くなっていた。
テオドールが彼を呼んだ。若い男が立ち上がり、こちらを見て、それから――口を開いた。
「あっ、奥様。おはようございます、いや、もう昼ですね、あの、この棚は今ちょっと散らかってまして、すみません、じきに片づきますので」
速い。三割も取れない。
テオドールが彼の肩を叩いた。若い男が振り返る。テオドールの唇が動いた。
「ミハイル」
一語。それだけで、若い男の顔が固まった。
彼は慌ててこちらへ向き直り、腰を折り、それから、ひどくゆっくり口を動かした。
「も、う、し、わ、け、ご、ざ、い、ま、せ、ん」
一音ずつ切っている。今度は逆に読みにくい。
わたしは掌を上に向けた。合図が通じるはずもないのに、そうしていた。
ミハイルは真っ赤になって、袖で顔を拭き、床の帳面を探り、紙と炭筆を見つけ出した。
それから、書いた。
『すみません 普通に喋ります 顔見て喋ります』
字が、ひどく汚かった。
炭筆が寝ていて、線が太い。「普通」の字が半分潰れている。
読むのに、しばらくかかった。
わたしの口の端が、少し動いた。
動いたことに、自分で気づくのが遅れた。
顔が動いたのは、いつ以来だろう。
人形姫。動かない顔にそう名をつけたのは王都で、動かないほうが安全だと決めたのはわたしだ。動かせば読まれる。読まれれば、次に何をされるか分からない。
ミハイルはそれを見て、耳まで赤くしたまま、また腰を折った。
テオドールが、卓の上に一冊を置いた。
新しい帳面だった。まだ何も書かれていない。
彼はそれを開き、最初の頁を示した。
右下に、細い罫が引いてある。署名のための場所だ。
「奥様のお名前を、こちらへ」
わたしは、動かなかった。
「東門の市で、小さな買い付けがございます。麻布を三十反。奥様のお名前で結んでいただければと」
わたしは、まだ動かなかった。
わたしの名で、何かが成立したことは、一度もない。
婚約は父と継母の宣誓で成立した。婚約破棄は継母の声で受諾された。辺境へ嫁ぐことも、扉の向こうで決まった。婚礼の宣誓すら、ノエルの口から出た。
十八年、わたしの名は、誰かの文の中にしか現れない。この子の。長女の。妻とする。
自分の名を、自分の手で書く。
そんな資格が、自分にあるとは思えなかった。
書けば、麻布が三十反動く。金が動く。人が動く。誰かがその布で服を作り、誰かがそれを着て冬を越す。
それが、わたしの一筆で決まる。
指が動かなかった。
テオドールは、急かさなかった。
彼は帳面を開いたまま、羽根ペンを置いて、待っていた。
急かす言葉を言わないだけではない。急かす顔もしない。棚を見るでもなく、こちらを見るでもなく、卓の木目のあたりに目を落としている。
どれくらい待ったのか分からない。窓の光が、卓の角から少し移った。
やがて彼は、帳面を閉じた。
閉じるとき、両手を使った。片手で倒すのではなく、両の掌で挟むようにして。
「では、また明日」
彼はそう言って、棚のほうへ戻っていった。
部屋を出るとき、ミハイルが顔を上げた。
彼は口を開きかけて、思い出したように止めた。
それから、紙を掲げた。
さっきの一枚だった。裏に、新しく書いてある。
『また来てください』
わたしは、その字を見ていた。
線が太くて、字がひどく汚い。読むのに手間がかかる。
手間がかかるということは、それだけ長く見ているということだった。
また明日。
明日も、あの人は同じことを言うのだろう。




