第13話 通じない者同士
東門の市には、六つの言葉が混じっているという。
わたしにとっては、どれも同じだった。
形が見えて、意味にならない。それだけだ。
市は、領都の東の門を出たところに立っていた。
常設の市で、屋根のある区画と、天幕を張っただけの区画がある。屋根のあるほうは石で組まれ、何十年も動いていない造りだった。
人が多い。
人が多いということは、唇が多いということだ。
わたしは目を伏せがちに歩いた。母の言いつけを守るなら、読むのは半刻までにしなければならない。
守れたためしがない。目に入った唇を読まないというのは、耳のある人に、聞こえたものを聞かずにいろと言うのと同じことだ。
テオドールが横を歩いている。荷を避けるとき、彼は必ずわたしの側に回った。
彼は市の者に呼び止められるたび、必ず立ち止まって振り返り、それから答えた。
匂いが濃かった。
干した魚。獣脂。何かの実を煮詰めたもの。区画が変わるたび、匂いが入れ替わる。目を閉じていても、どのあたりにいるか分かりそうだった。
市の全員が、板を持っていた。
小さな木の板だ。片面に炭が塗ってあり、その上に石筆で書く。書いて、消して、また書く。
値段を言い合うかわりに、板に数を書いて突きつける。相手が首を振れば、消して、別の数を書く。
声を出している者も多い。出しているのに、声で通じていない。
毛皮を売る男と、それを買おうとしている女がいた。
二人の唇は、まったく別の形をしている。別の言葉だ。
それでも取引は進んでいた。板の上でだけ、進んでいた。
わたしは、それをしばらく見ていた。
あの二人は、通じていない。声を出しているのに、互いに何も受け取っていない。
それでも毛皮は動き、銅貨は動く。
王都の広間では、全員が同じ言葉を喋っていた。喋っていて、誰も何も受け取っていなかった。
「イーサ・ドラン。うちの香辛料は、みなこの者から入ります」
テオドールが正面に回って、そう言った。
天幕の下に、女がいた。
背が高く、肩に厚みがある。日に焼けた顔で、耳に金の輪をいくつも通していた。
イーサはこちらを見て、大きく口を開いた。
読めない。
母音が崩れている。口の端が下がったまま、ほとんど開かない。単語の切れ目がどこにもない。
早口という以前に、形が違った。
彼女はもう一度言った。今度は少し身を乗り出して。
唇が三度すぼまり、そのあいだに一度も開かない。この国の言葉なら、あの並びは起こらない。
読めない。
三度目。彼女は手ぶりを加えた。手を上下に振り、こちらを指し、また上下に振る。
手ぶりは、何かを量る動きに見えた。
読めない。
テオドールが割って入ろうとした。
わたしは掌を下に向けた。彼には通じない合図だ。それでも彼は、なぜか手を引いた。
読めない相手を前にして、わたしは立っていた。
十八年、この形をひとつずつ意味に変えて生きてきた。そのやり方が、この天幕の下では何の役にも立たない。
持っている道具が、丸ごと使えない。そういう場所が、この世にはあった。
イーサの顔が、だんだん赤くなっていった。
この女は、伝わらないことに焦れているのではない。
伝えられないことに焦れている。指の動きが、そう言っていた。相手を指す動きより、自分の胸を叩く動きのほうが多い。
やがて彼女は、天幕の柱に掛けてあった板をひったくった。
袖で乱暴に炭を均し、石筆を握った。
書いた。
『あんた 前の奥様と ちがう?』
字が、下手だった。
線がよれていて、「奥」の字が半分崩れている。ミハイルの字も汚かったが、あれは急いで書く者の汚さだ。こちらは、字を覚えたての者の下手さだった。
十四年、この土地で商いをしてきて、この人は書くほうを覚えたのだろう。喋るほうではなく。
わたしは板を受け取って、余白に書いた。
『わたしは前の奥様ではありません。今年来ました』
イーサは板を覗き込み、口を動かした。読めない。
それから板を奪い返して、炭を均し、また書いた。
『前の奥様 香 すきだった あんた すき?』
わたしは書いた。
『まだ知りません。何がありますか』
イーサの目が、大きくなった。
彼女は板を放り出して、天幕の奥へ引っ込んだ。
戻ってきたとき、両手に小さな麻袋を四つ抱えていた。
袋の口を開けて、一つずつ差し出す。
最初の袋は、鼻の奥を刺した。粉が細かく、息を吸うと喉まで来る。目の縁に水が滲んだ。
二つ目は甘い。乾いた花に似ている。指先で摘むと、かさりと崩れた。
三つ目は土の匂いがした。雨のあとの、掘り返した土だ。
四つ目を嗅いだとき、わたしは顔を離した。
獣の脂と、腐りかけた果物と、焦げた木を、一度に嗅がされたような匂いだった。
イーサが板に書いた。
『それ 高い』
わたしは書き返した。
『高くて、この匂いですか』
イーサが板を読んだ。
読んで、口を大きく開けて、体を折った。
肩が上下に揺れている。笑っている。
彼女は起き上がると、こちらへ親指を立てて見せた。
その動きの意味は、六つのどの言葉でも同じらしかった。
板を返すとき、指が触れた。
硬い手だった。掌の縁に、荷縄の擦れた跡がある。
帰り道、テオドールが言った。
「イーサ殿は、こちらへ来て十四年になります」
彼は歩きながらではなく、立ち止まってから言う。
「この国の言葉を、まだ喋れませぬ。あの者の国の言葉を、わたくしも喋れませぬ」
わたしは紙を出そうとして、やめた。
風が強い。紙が飛ぶ。
代わりに、指を四本立てた。四つの袋、という意味のつもりだった。
テオドールは首を傾けて、それから言った。
「四袋、控えておきましょう」
通じていた。
指を四本立てただけだ。声も、字も、使っていない。
通じるか通じないかは、こちらの持ち物ではないのかもしれない。相手が受け取ろうとするかどうかで決まるのかもしれない。
市の外れで、荷馬車が停まっていた。
幌が半分捲れている。
その下に、木箱が積まれていた。
箱の側面に、焼き印がある。松脂で汚れた木肌に、その形だけが黒く残っていた。
盾を二つ重ねて、上に星を一つ。
ラングレー侯爵家の紋だった。
わたしは足を止めた。
八年、その紋を見てきた。婚約者の家の紋だ。招かれた広間の壁にも、馬車の扉にも、書簡の封蝋にも入っていた。
破棄の宣誓が行われた広間の、正面の壁にも掛かっていた。
王都から、十二日かかる。
その十二日の先に、あの家の荷が来ている。
テオドールが振り返り、こちらの視線を追った。
彼は幌を見て、何も言わなかった。
言わなかったことは、読めない。
読めないけれど、この人はさっきまで、何にでも一言ずつ返していた。イーサの袋にも、わたしの指四本にも。
風が幌を煽った。焼き印が、もう一度こちらを向いた。
荷は東へ向かうのか、西へ帰るのか。わたしには分からない。分からないことばかりが、この土地では増えていく。




