第14話 書けるお方は
テオドールは、その日も同じことを言った。
「お名前を、こちらへ」
十一回目だった。
書記官房に通うようになって十一日。
彼は毎日、帳面を開き、署名の罫を示し、待ち、そして両手で閉じる。
一度も、理由を尋ねなかった。
なぜ書かないのですかとも、いつになったら書けますかとも言わない。
閉じるとき、必ず両手を使う。片手で倒さない。
紙は倒すと折れる。折れたところから湿気が入る。そう言っていた。
この十一日で、わたしは書記官房のことを覚えた。
朝は棚の点検から始まる。ミハイルが年号の順を確かめ、湿気で反った帳面を平らな石に挟む。
昼前に市からの届けが来て、数を照らし合わせる。合わなければ、その場で書き足す。書き足すときは、消さない。二重線を引いて、その上に正しい数を書き、日付と名を添える。
『消さないのですか』
三日目に、わたしはそう書いて尋ねた。
「消せませぬ」
テオドールは即座に答えた。
「間違えたことも、控えておかねばなりませぬ。書いておらぬことは、ございませんでした。書いてあるものは、間違いであっても、ございました」
彼はそういう言い方をする。
王都では逆だ。
言い間違えたことは、なかったことにできる。言っていないことは、三人が聞いたと言えば、あったことになる。
どちらの国も、同じ王が治めている。
十一日目の午後だった。
窓から入る光が、卓の上を斜めに切っている。
帳面が開かれている。麻布三十反の買い付け。相手はイーサ・ドラン。品目と数量と日付は、すでに書き込まれていた。
空いているのは、右下の罫だけだ。
テオドールが羽根ペンを置いた。
置いて、待つ姿勢に入った。卓の木目のあたりに目を落とす、あの姿勢だ。
わたしは、羽根ペンを見ていた。
軸が長い。先が三度ほど削り直されていて、そこだけ色が薄くなっている。何度も使われたペンだ。
わたしの名で、何かが成立したことは、一度もない。
八年前、婚約は父と継母の宣誓で成立した。わたしは自室で刺繍をしていた。
破棄も継母の声で受諾された。わたしはその部屋にいて、一言も発しなかった。
辺境へ嫁ぐことは、扉の隙間から読んだ。わたしはその部屋に入れてもらえなかった。
婚礼の宣誓は、ノエルの口から出た。わたしは掌を上に向けただけだった。
十八年、わたしの名は、いつも誰かの文の中にあった。
この子の。長女の。妻とする。
主語になったことが、ない。
その日々を、不幸だと思ったことはなかった。
思う筋道がなかった。生まれたときからそうであるものを、人はそういうものだと思う。海のそばで生まれた者が、潮の匂いに気づかないのと同じだ。
今、その匂いが分かる。
書けば、麻布が三十反動く。
もし数を間違えていたら。もし相手が約束を違えたら。この帳面に名があるのは、わたしだ。
指が動かなかった。
テオドールが顔を上げた。
彼は卓を回り込んで、こちらの正面まで来た。
背が低いので、座っているわたしと目の高さが合う。
ゆっくりと、口を開いた。
「奥様」
一語ずつ。
「この土地では、書いたものが主でございます」
彼はそこで一度切った。
「書けるお方は、書けぬお方より、強うございますよ」
わたしは、彼の唇を見ていた。
書けるお方は。
書けぬお方より。
強う、ございますよ。
一語も落ちなかった。
テオドールは言い終えると、羽根ペンをこちらへ寄せた。
軸の先が、わたしの手のほうを向いている。
わたしは、羽根ペンへ手を伸ばした。
途中で、手が止まりかける。
書けば、後戻りができない。この土地の帳面は、消せない。間違えても、消せない。二重線が引かれて、間違えたことごと残る。
残る。
――残るのか。
わたしは、それを取った。
軸は思ったより重い。羽根の部分が広いせいで、重心が後ろにある。持ち方を直した。
インク壺に浸す。引き上げるとき、壺の縁で先を撫でて量を落とす。ミハイルが毎朝そうしているのを、十一日見ていた。
罫の上に、先を下ろした。
紙の繊維が、ペン先に引っかかる。
この帳面の紙は、書簡用の紙より粗い。粗いぶん、インクが乗るとすぐに沈む。
最初の一画で、線が滲んだ。
手が震えていた。
わたしは一度ペンを上げて、震えが止まるまで待った。止まらなかった。
止まらないまま、続けた。
字が歪んだ。二画目が長すぎた。十八年ぶんの名前を、たった二語で書き終えるには、手が慣れていなかった。
セレーヌ。
カルネイド。
書き終えて、ペンを置いた。
インクは、まだ乾いていない。光の角度によって、そこだけ黒く濡れて見える。
テオドールが帳面を引き寄せた。
彼は署名を見て、老眼らしく少し離して見た。それから、指の腹でインクの縁に触れ、乾き具合を確かめた。
帳面を閉じる。
両手で、挟むように。
閉じた帳面の上に、両の掌を置いたまま、彼は口を開いた。
「これで、成立でございます」
わたしは自分の手を見た。
指先にインクがついている。
拭こうとして、やめた。
窓の外で、風が鳴っているのだろう。硝子が細かく震えて、その震えが卓を伝い、閉じた帳面まで来ていた。
帳面の中に、わたしの名がある。
部屋に戻ると、卓の上に手紙が置かれていた。
封蝋を見て、すぐに分かった。
ヴィオレ伯爵家の紋だ。
開いた。
継母の字は、装飾が多い。読みやすくはない。
『セレーヌへ
辺境でのお暮らしはいかがですか。さぞご不便でしょう。
あちらの方々は言葉も荒く、礼も知らぬと聞いております。あなたのような子が、どれほど困っていることか。
困ったことがあれば、すぐにお知らせなさい。わたくしが代わりに申し上げます。
辺境伯様へのお願いごとも、こちらから文を出すほうがよろしいでしょう。あなたが直に何かを申し上げても、通じませぬから。
衣装のことも、侍女のことも、こちらで手配いたします。あなたは何もお決めにならなくて結構です。
マルグリット』
わたしは、それを二度読んだ。
紙が薄い。透かすと、裏の字が見える。
この手紙は、正しい。
王都の理屈では、何ひとつ間違っていない。証人資格を持たない者の意思は、後見人の声を通す。だから継母が代わりに申し上げる。それが制度だ。
けれど、ここは辺境だ。
この土地では、口で申したことは効かない。
継母がどれほど声に出しても、この領地の控帳には何も書かれない。
今日、わたしは自分の名を書いた。
十八年わたしを縛っていたものが、地図の上を十二日ぶん移動しただけで、効かなくなった。
継母は、それを知らない。
知らせるつもりも、なかった。
知らせれば、次の手を打つ。この人はそういう人だ。十二年、そうやってわたしの周りの道を一本ずつ塞いできた。
わたしは手紙を畳もうとして、指を止めた。
最後の一行の下に、余白がある。
その余白に、もう一行あった。
継母の字ではない。
装飾がなく、線が細く、右上がりに傾いている。
男の字だった。
『近いうちに、伺います』
署名はない。
わたしは、その七文字を見ていた。
十二日かかる場所へ、伺うという。
市の外れに停まっていた荷馬車。幌の下の木箱。盾を二つ重ねて、上に星を一つ。
誰の字かは、分かっている。




