表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/30

第14話 書けるお方は

 テオドールは、その日も同じことを言った。


「お名前を、こちらへ」


 十一回目だった。


 書記官房に通うようになって十一日。

 彼は毎日、帳面を開き、署名の罫を示し、待ち、そして両手で閉じる。


 一度も、理由を尋ねなかった。

 なぜ書かないのですかとも、いつになったら書けますかとも言わない。


 閉じるとき、必ず両手を使う。片手で倒さない。

 紙は倒すと折れる。折れたところから湿気が入る。そう言っていた。



 この十一日で、わたしは書記官房のことを覚えた。


 朝は棚の点検から始まる。ミハイルが年号の順を確かめ、湿気で反った帳面を平らな石に挟む。

 昼前に市からの届けが来て、数を照らし合わせる。合わなければ、その場で書き足す。書き足すときは、消さない。二重線を引いて、その上に正しい数を書き、日付と名を添える。


『消さないのですか』


 三日目に、わたしはそう書いて尋ねた。


「消せませぬ」


 テオドールは即座に答えた。


「間違えたことも、控えておかねばなりませぬ。書いておらぬことは、ございませんでした。書いてあるものは、間違いであっても、ございました」


 彼はそういう言い方をする。


 王都では逆だ。

 言い間違えたことは、なかったことにできる。言っていないことは、三人が聞いたと言えば、あったことになる。

 どちらの国も、同じ王が治めている。



 十一日目の午後だった。


 窓から入る光が、卓の上を斜めに切っている。

 帳面が開かれている。麻布三十反の買い付け。相手はイーサ・ドラン。品目と数量と日付は、すでに書き込まれていた。


 空いているのは、右下の罫だけだ。


 テオドールが羽根ペンを置いた。

 置いて、待つ姿勢に入った。卓の木目のあたりに目を落とす、あの姿勢だ。


 わたしは、羽根ペンを見ていた。


 軸が長い。先が三度ほど削り直されていて、そこだけ色が薄くなっている。何度も使われたペンだ。


 わたしの名で、何かが成立したことは、一度もない。


 八年前、婚約は父と継母の宣誓で成立した。わたしは自室で刺繍をしていた。

 破棄も継母の声で受諾された。わたしはその部屋にいて、一言も発しなかった。

 辺境へ嫁ぐことは、扉の隙間から読んだ。わたしはその部屋に入れてもらえなかった。

 婚礼の宣誓は、ノエルの口から出た。わたしは掌を上に向けただけだった。


 十八年、わたしの名は、いつも誰かの文の中にあった。

 この子の。長女の。妻とする。


 主語になったことが、ない。


 その日々を、不幸だと思ったことはなかった。

 思う筋道がなかった。生まれたときからそうであるものを、人はそういうものだと思う。海のそばで生まれた者が、潮の匂いに気づかないのと同じだ。


 今、その匂いが分かる。


 書けば、麻布が三十反動く。

 もし数を間違えていたら。もし相手が約束を違えたら。この帳面に名があるのは、わたしだ。


 指が動かなかった。



 テオドールが顔を上げた。


 彼は卓を回り込んで、こちらの正面まで来た。

 背が低いので、座っているわたしと目の高さが合う。


 ゆっくりと、口を開いた。


「奥様」


 一語ずつ。


「この土地では、書いたものが主でございます」


 彼はそこで一度切った。


「書けるお方は、書けぬお方より、強うございますよ」


 わたしは、彼の唇を見ていた。


 書けるお方は。

 書けぬお方より。

 強う、ございますよ。


 一語も落ちなかった。


 テオドールは言い終えると、羽根ペンをこちらへ寄せた。

 軸の先が、わたしの手のほうを向いている。



 わたしは、羽根ペンへ手を伸ばした。

 途中で、手が止まりかける。

 書けば、後戻りができない。この土地の帳面は、消せない。間違えても、消せない。二重線が引かれて、間違えたことごと残る。


 残る。


 ――残るのか。


 わたしは、それを取った。


 軸は思ったより重い。羽根の部分が広いせいで、重心が後ろにある。持ち方を直した。

 インク壺に浸す。引き上げるとき、壺の縁で先を撫でて量を落とす。ミハイルが毎朝そうしているのを、十一日見ていた。


 罫の上に、先を下ろした。


 紙の繊維が、ペン先に引っかかる。

 この帳面の紙は、書簡用の紙より粗い。粗いぶん、インクが乗るとすぐに沈む。


 最初の一画で、線が滲んだ。


 手が震えていた。


 わたしは一度ペンを上げて、震えが止まるまで待った。止まらなかった。

 止まらないまま、続けた。

 字が歪んだ。二画目が長すぎた。十八年ぶんの名前を、たった二語で書き終えるには、手が慣れていなかった。


 セレーヌ。


 カルネイド。


 書き終えて、ペンを置いた。


 インクは、まだ乾いていない。光の角度によって、そこだけ黒く濡れて見える。



 テオドールが帳面を引き寄せた。


 彼は署名を見て、老眼らしく少し離して見た。それから、指の腹でインクの縁に触れ、乾き具合を確かめた。


 帳面を閉じる。

 両手で、挟むように。


 閉じた帳面の上に、両の掌を置いたまま、彼は口を開いた。


「これで、成立でございます」


 わたしは自分の手を見た。


 指先にインクがついている。

 拭こうとして、やめた。


 窓の外で、風が鳴っているのだろう。硝子が細かく震えて、その震えが卓を伝い、閉じた帳面まで来ていた。

 帳面の中に、わたしの名がある。



 部屋に戻ると、卓の上に手紙が置かれていた。


 封蝋を見て、すぐに分かった。

 ヴィオレ伯爵家の紋だ。


 開いた。


 継母の字は、装飾が多い。読みやすくはない。


『セレーヌへ


 辺境でのお暮らしはいかがですか。さぞご不便でしょう。

 あちらの方々は言葉も荒く、礼も知らぬと聞いております。あなたのような子が、どれほど困っていることか。


 困ったことがあれば、すぐにお知らせなさい。わたくしが代わりに申し上げます。

 辺境伯様へのお願いごとも、こちらから文を出すほうがよろしいでしょう。あなたが直に何かを申し上げても、通じませぬから。


 衣装のことも、侍女のことも、こちらで手配いたします。あなたは何もお決めにならなくて結構です。


 マルグリット』


 わたしは、それを二度読んだ。


 紙が薄い。透かすと、裏の字が見える。


 この手紙は、正しい。

 王都の理屈では、何ひとつ間違っていない。証人資格を持たない者の意思は、後見人の声を通す。だから継母が代わりに申し上げる。それが制度だ。


 けれど、ここは辺境だ。


 この土地では、口で申したことは効かない。

 継母がどれほど声に出しても、この領地の控帳には何も書かれない。


 今日、わたしは自分の名を書いた。


 十八年わたしを縛っていたものが、地図の上を十二日ぶん移動しただけで、効かなくなった。


 継母は、それを知らない。


 知らせるつもりも、なかった。

 知らせれば、次の手を打つ。この人はそういう人だ。十二年、そうやってわたしの周りの道を一本ずつ塞いできた。



 わたしは手紙を畳もうとして、指を止めた。


 最後の一行の下に、余白がある。

 その余白に、もう一行あった。


 継母の字ではない。

 装飾がなく、線が細く、右上がりに傾いている。


 男の字だった。


『近いうちに、伺います』


 署名はない。


 わたしは、その七文字を見ていた。


 十二日かかる場所へ、伺うという。

 市の外れに停まっていた荷馬車。幌の下の木箱。盾を二つ重ねて、上に星を一つ。


 誰の字かは、分かっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ