第15話 二年前の署名
「隣国の麻の値が、三割上がっております」
テオドールはそう言って、控帳を三冊、卓に並べた。
署名をしてから、五日が過ぎていた。
その五日で、書記官房での扱いが変わった。彼は帳面を見せるようになり、数を尋ねるようになった。
今日は三冊だった。
三年ぶんの麻の取引が、順に開かれている。
『三割は、多いのですか』
わたしはそう書いた。
「多うございます。二年前は一割、昨年は据え置きでございました」
テオドールは老眼で紙を離しながら答える。
「向こうは、綿の不作を理由にしております。麻と綿は、別のものでございますが」
彼は自分でその皮肉を言って、自分では顔を動かさない。
この人の言うことは、時々そういう形をしている。言い切って、あとは相手に任せる。
わたしは三冊を並べ替えた。
三年前。二年前。今年。
同じ商会の名が、三冊とも入っている。ハルデン商会。この国の字で書かれている。
値と数を、順に見ていった。
三年前。麻布二百反、銀貨四十枚、署名。
二年前。麻布二百二十反、銀貨四十四枚、署名。
今年。麻布二百反、銀貨五十二枚、署名。
数は分かる。数は、どの言葉でも同じ形だ。
わたしの目は、数の下に落ちた。
署名の字が、違った。
三年前と二年前の署名は、同じ手だ。「ハ」の払いが長く、最後の一画が右へ跳ねる。癖のある字で、二冊とも同じ跳ね方をしている。
今年の署名は、跳ねていない。
字の形は似せてある。似せてあるが、線の入りが違った。この字を書いた者は、筆を紙に置いてから動かしている。前の二年ぶんは、動かしながら置いている。
書き慣れた者と、真似ている者の差だ。
三冊を、窓の光に近づけた。
二年前の「ハ」は、払いの終わりが紙から離れている。今年のは、離れる前に止まっている。止まってから離すと、そこに小さな溜まりができる。溜まりが三箇所あった。
王都で、わたしは十八年、人の唇を見てきた。
同じ言葉を言っても、人によって唇の動き方は違う。動き方は、変えられない。真似ようとすれば、必ずどこかが遅れる。
字も、同じことだった。
わたしは紙に書いた。
『二年前と今年の署名は、別の手です』
テオドールが紙を読んだ。
読んで、顔を上げた。
「別の、手」
彼は三冊を引き寄せ、三つの署名を並べた。
しばらく見ていた。それから、老眼鏡を外して、もっと近づけた。
「なるほど」
それだけ言って、彼は羽根ペンを取り、紙に何か書き始めた。
書きながら、口が動いている。読めない。書く人間の口は、いつも読めない。
ミハイルが棚の陰から顔を出した。
手に炭筆を持っている。この十日で、彼は紙と炭筆を袖に入れて歩くようになった。誰にも言われていないのに、そうしている。
彼は書いて、掲げた。
『字で人が分かるんですか すごい』
わたしは書き返した。
『あなたの字も、すぐ分かります』
ミハイルはそれを読んで、耳まで赤くした。
それから、自分の掌に何か書いて、袖でごしごし擦って消した。汚いと書いたのだろう。合っている。
三日後、交渉の間に呼ばれた。
長い卓の向こうに、隣国の商会の者が三人座っていた。
真ん中の男が代表らしい。太った、赤ら顔の男だった。
こちら側には、ヴァイスとテオドール、それにわたしが座った。
男が喋り始めた。
速い。しかも隣国の言葉だ。母音の並びが違う。
三分の一も取れない。
テオドールが通訳し、ヴァイスが答える。ヴァイスが隣国の言葉を使うと、そちらも読めなくなる。
卓の上で、言葉が飛び交っていた。
その全部が、わたしには届かない。
王都の広間と同じだった。
卓の下で、指を組んだ。
ここに座っていても、わたしにできることはない。読めないものは、読めない。半刻粘っても、六つの言葉は覚えられない。
わたしは紙を出した。
誰も、わたしのほうを見ていない。
見ていないから、紙を出せる。十八年、この状況にだけは慣れている。
書いて、テオドールへ滑らせた。
『二年前の署名と、本日の署名は別人です。代理人の権限を確認されたい』
テオドールが紙を読んだ。
彼は立ち上がり、卓を回り込んで、赤ら顔の男の正面に立った。
この人は、誰に対してもそうする。
それから、口を開いた。
何を言ったのかは、読めない。隣国の言葉だったからだ。
けれど、その結果は読めた。
赤ら顔の男の口が、開いたまま止まった。
右隣の男が、腰を浮かせた。
左隣の男が、卓の下で何かを探っている。書類だろう。
テオドールは自分の席へ戻ると、二年前の控帳を開き、そのまま卓の上を滑らせた。
三年前の控帳も、開いて滑らせた。
二つの署名が並ぶ。
赤ら顔の男が、それを見た。
見て、こちらを見た。ヴァイスを見て、テオドールを見て、それからわたしを見た。
わたしは、何もしていない。
紙を一枚、渡しただけだ。
男の唇が動いた。読めない。
テオドールが答えた。読めない。
やがて男が立ち上がり、腰を折った。
その動きの意味は、読めた。
わたしは、その男の唇を最後まで読めなかった。
読む必要が、なかった。
交渉の間を出たのは、日が傾いてからだった。
回廊の窓から、西日が入っている。
石の床が、その光の帯だけ温かかった。
ヴァイスが追いついてきた。
彼は横に並ばなかった。追い越して、振り返って、正面に立ってから口を開いた。
「助かった」
速くない。
「――分かるか」
わたしは指を一本立てた。分かった、という合図のつもりだった。
彼はそれを見て、少し黙った。
それから、こう続けた。
「いや。分かってないな」
彼は言い直した。
「助かった、というのは、俺が礼を言っている」
わたしは、彼の唇を見ていた。
礼。
十八年、誰かに礼を言われたことがあっただろうか。
継母は言わない。父も言わない。妹は「ありがとう」と言うが、あれは口癖だ。ノエルは言うが、あの人は仕える側だから、言い方が違う。
この人は、対等の相手に言う言い方をした。
喉の奥が詰まった。
紙を出そうとして、袂を探った。今日は持ってきていない。交渉の間に置いてきた。
わたしは掌を上に向けて、それから下ろした。何の合図でもなかった。
彼は用が済んだという顔で、行きかけた。
行きかけて、止まった。
止まって、また回り込んで、正面に立った。
「値は据え置きになった。三割ぶん、浮いた」
彼はそこで一度切った。
「あんたの名で結んだ帳面が、二年前のと並んでいた。あれで気づいたんだろう」
わたしは首を横に振ろうとした。
署名をしたのは麻布三十反の別の帳面で、今回の件とは関係がない。
振りかけて、やめた。
名を書いたから、帳面を見せてもらえるようになった。
帳面を見せてもらえたから、三冊を並べられた。
関係が、ないとは言えない。
この人は、それを一息で辿ったのだろうか。
辿ったうえで、わざわざ回り込んで、言いに戻ってきたのだろうか。
その夜、婚礼の日のことを思い出した。
だから、あんたは、ここで。
あの続きを、わたしはまだ読めていない。
三語か、四語。最後のあたりで、下唇を軽く噛むような動きがあった。
それだけが、半月経っても消えない。
尋ねればいい。紙に書けば済む。
書けない。
あの人は、伝わらなかったことを知っていて、伝え直さなかった。伝え直さなかったものを、こちらから掘り出すのは、たぶん作法に反する。
窓の外を、白いものが横切った。
最初は虫かと思った。
次に、もう一つ落ちた。
初雪だという。
この土地の冬は、六十日のあいだ、道を閉ざすらしい。




