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「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


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第16話 名を呼ばれるということ

 冬支度の市で、はじめて名前を呼ばれた。


 正確には、呼ばれたのを、見た。


 領都の中通りは、朝から人でいっぱいだった。

 雪が本降りになる前に、根菜と塩と薪を買い込む。この土地の者は、それを一日でやるらしい。


 わたしはノエルと二人で歩いていた。買い付けの立ち会いというより、見に来ただけだ。


 空気が刺さるように冷たい。息を吐くと白くなる。

 手袋越しでも、指先の感覚が薄れていく。王都の秋にも冷える日はあったが、この冷え方は違った。骨の芯まで来る。


 通りの端に、根菜を並べた老婆がいた。


 わたしが前を通ると、老婆は籠から顔を上げた。

 それから、腰を伸ばして、こちらへ体を向けた。


 正面から。


「奥様」


 はっきりと、そう動いた。


 わたしは足を止めた。


 老婆は続けた。ゆっくりだった。歯が抜けているせいで唇の形が少し崩れていたが、それでも読めた。


「今年の蕪は、いいのが入っておりますよ」


 わたしは、それをただ見ていた。


 この老婆は、わたしを知らない。

 名も、素性も、どこから来たかも知らないだろう。知っているのは、この土地に新しい辺境伯夫人が来たということだけだ。

 それでも彼女は、腰を伸ばして、体を回して、正面に立った。蕪を売るために。



 ノエルが横から紙を出した。わたしが動かないので、代わりに何か書いて渡している。

 老婆はそれを読んで、蕪を二つ、布に包んだ。


 通りを進んだ。


 薪を積んだ男が、荷を下ろして、こちらへ向き直った。

 塩を量っていた女が、手を止めて、体を回した。


 誰もが同じことをした。

 わたしが近づくと、一度手を止めて、正面に立つ。


 二人目までは偶然だと思った。

 五人目で、そうではないと分かった。


 彼らは、わたしのために手を止めているのではない。

 手を止めなければ話が通じないと知っていて、通じさせるために止めている。商いだからだ。

 そこには気の毒も、慈悲もなかった。



『皆さん、ご存じなのですね』


 わたしはノエルにそう書いた。


 ノエルは紙を読んで、少し口ごもった。


「……あたくしが申し上げたのではございません」


 彼女は前掛けの端を握った。この人は言いにくいことを言うとき、必ずそこを握る。


「厨房の者に聞きました。婚礼の前の晩に、旦那様が館の者を集めて、一度だけ仰ったそうでございます」


 わたしは待った。


「顔を見て話せ。それだけ、と」


 それだけ。


 顔を見て話せ。

 言われた側は、なぜかとは聞かなかったのだろうか。聞いたとしても、あの人は答えなかっただろう。


「説明はなかったそうでございます。理由も、事情も。ただそれだけ仰って、下がられたと」


 ノエルはそこで一度言葉を切った。


「館の者が、市の者に伝えたのでございましょう。誰かが誰かに言って、それが回ったのだと」


 わたしは通りを見た。


 薪を積む男が、また作業に戻っている。

 塩を量る女が、次の客と何か言い交わしている。


 誰も、こちらを見ていない。用があるときだけ、正面に立つ。



 名前を呼ばれるというのは、こういうことか。


 相手が、こちらを見て、口を動かすということだ。


 王都では十八年、名前を呼ばれたことがなかった。

 呼ばれていたのかもしれない。背中で、横で、遠くで、扇の陰で。呼ばれていたとしても、わたしには一度も届かなかった。


 届かないものは、なかったのと同じだ。


 この土地の人たちは、それを知っている。

 誰かが誰かに言って、回った。


 王都でも、わたしの噂は回っていた。

 人形姫。表情が動かない。声が作り物だ。気の毒に。

 回るものは同じでも、回った先で人が何をするかは、土地によって違うらしい。



 館に戻ると、厨房が湯気で満ちていた。


 冬の保存食の仕込みが始まっている。

 塩漬けの肉。酢に沈めた根菜。乾かした魚。大きな甕が並び、その口から酸い匂いが立っていた。


 わたしは邪魔にならない隅に立った。

 床から熱が上がってくる。竈が三つとも焚かれている。ここだけは、外の冷えが届かない。


 料理番の女が、鍋から目を離さずに何か怒鳴っている。読めない。

 ノエルが腕まくりをして、甕のほうへ入っていった。


 湯気で、髪が湿ってくる。



 ミハイルが来た。


 書記官房の仕事ではないのだろう。袖に炭筆を差したまま、薪を抱えている。

 彼はわたしを見つけると、薪を置いて、こちらへ来た。


 置いてから来る。それも、この館の作法らしかった。

 両手が塞がっていると、人は手ぶりを使えない。手ぶりを使えないと、こちらに伝わるものが減る。

 誰かがそう考えて、そうしているのか。それとも、ただ薪が重かっただけなのか。分からない。


 彼は正面に立って、それから、手を動かした。


 右の掌を下に向けて、二度、下げる。


 ――待って、の合図だった。


 わたしは彼を見た。

 彼は真剣な顔で、もう一度やった。掌を下に、二度。


 違う。

 その合図は一度だ。二度やると、意味が変わる。ノエルとわたしのあいだでは、二度は「もういい」になる。


 誰かに聞いたのだろう。聞いて、覚え違えたのだろう。


 ノエルとわたしの合図は、十数しかない。母が作ったものが半分、あとは十五年のあいだに自然にできたものだ。

 誰かに教えたことは、一度もない。


 わたしは自分の右手を上げて、掌を下に向けて、一度だけ下げてみせた。


 ミハイルの目が丸くなった。

 彼はそれを真似た。一度。


 もう一度、真似た。一度。


 三度目に、わたしのほうを見て、確かめるように止めた。


 わたしは、口の端を動かした。


 動いた。今度は、自分で分かった。



 ミハイルが顔じゅうを赤くして、薪のほうへ走っていった。


 わたしは自分の口元に指を当てた。

 まだ、動いている。


 顔を上げると、甕の陰でノエルがこちらを見ていた。


 彼女は手を止めていた。

 濡れた手を前掛けで拭こうともせず、こちらを見ている。


 目の縁が、赤かった。


 彼女は慌てて背を向け、甕の中を掻き回し始めた。

 背中しか見えないから、そのあとは読めない。


 十二年ぶりだった。


 母が死んでから、わたしの顔が動いたのを、この人は一度も見ていない。

 見ていないあいだ、この人はずっと、わたしの代わりに口を開いてきた。



 夕方、ヴァイスの執務室に呼ばれた。


 卓の上に、開いた書状が置かれている。

 テオドールが脇に立っていた。


 ヴァイスが正面に回って、口を開いた。


「王都から早馬が来た」


 速くない。


「使者が来る。雪が閉じる前に着くそうだ」


 彼はそこで一度切った。


「秋仕舞いの夜会に合わせてくるつもりらしい。――王都は、東に用があるときだけ来る。いつもそうだ」


 わたしは紙に書いた。


『どなたですか』


 ヴァイスは紙を読んで、書状に目を落とした。


「名は書いていない」


 彼は書状を裏返した。


「明日か、明後日には分かる」



 部屋に戻ると、窓の外が白かった。


 雪が積もり始めている。

 硝子に指を当てると、その向こうの冷たさが伝わってきた。


 雪が道を閉ざすまで、あと二十日。


 閉じてしまえば、誰も来られない。

 閉じる前に、誰かが来る。

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