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「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


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第17話 書庫は暗い

「書庫を見せる」


 そう言われて、ついて行った。


 扉が開いた瞬間、何も読めなくなった。


 書庫は、館の北側にあった。

 窓が小さい。腰より高い位置に、細長いものが二つあるだけだ。北向きだから、そこから入る光は弱い。


 燭台が一つ、入口の脇に立っていた。

 火は入っていなかった。真鍮の受け皿に、古い蝋が厚く固まっている。ここ何日も、誰も火を入れていない。

 紙の匂いがした。書記官房のあの甘い匂いとは違う。もっと古く、埃と、かすかに黴を含んでいる。


 ヴァイスは中へ入り、奥の棚を指した。


「この列が、境界の書類だ」


 背中だった。


 彼は棚に向かって喋っている。指で背表紙をたどりながら、こちらへは向いていない。


 わたしは扉のそばに立っていた。



 彼の唇は見えない。

 見えないから、何も入ってこない。


 彼はまだ話している。肩の動きで分かる。時々、腕が上がって、どこかを指す。

 指の先には棚がある。棚には帳面がある。それがどういう帳面なのかを、彼は説明しているのだろう。


 わたしは、その背中を見ていた。


 こういうことは、よくある。

 王都でも、毎日あった。


 誰かが歩きながら喋る。誰かが背中で喋る。誰かが暗がりで喋る。そのたびに世界が閉じて、しばらくすると開く。開いたときには話が終わっている。

 終わった話の中身は、あとで別の誰かの唇から拾う。拾えなければ、拾えないままにしておく。


 十八年、そうしてきた。


 慣れているというのは、それでいいということではない。

 ただ、腹が立たなくなるということだ。腹が立たないと、口を開こうとも思わなくなる。



 ヴァイスが、こちらを振り返った。


 振り返って、何か言った。

 窓を背にしていた。逆光になる。唇の谷に影が落ちて、形が潰れた。


 わたしは、立っていた。


 彼が待っている。返事を待つ顔だ。

 こちらが答えないので、彼はもう一度、同じ長さのことを言った。


 同じ長さのものが、同じように読めなかった。


 二度目のほうが、少しゆっくりだった。

 彼は速さのせいだと思っている。速さのせいではない。

 わたしは首を振ろうとして、やめた。振ってどうするのか、その先を思いつかなかった。


 彼の顎が、少し引かれた。

 それから、彼は動いた。


 棚の前を離れて、こちらへ歩いてくる。

 入口の脇の燭台まで来て、止まった。


 彼は燭台を見た。

 次に、天井の高さを見た。

 次に、北向きの小さな窓を見た。

 最後に、わたしの顔を見た。


 四つを順に見て、そこで止まった。


「……悪い」


 唇が、そう動いた。


「暗いな」


 それだけだった。


 言い訳をしなかった。良かれと思ったとも、気が回らなかったとも言わない。



 彼は書庫を出て行った。

 足音の震えは、この館の床では伝わらない。厚い石の上に木を張ってあるからだ。だから、彼がどこまで行ったのか分からない。

 わたしは扉のそばで待った。


 しばらくして戻ってきたとき、両手に燭台を持っていた。

 入口の脇にあったものを含めて、四本。


 彼は四本を、部屋の中に置いた。


 一本を扉の脇に。

 一本を棚の列の端に。

 一本を長机の上に。

 最後の一本を、自分が立つつもりの場所の前に。


 火を入れる。四つの炎が立った。


 部屋の影が薄くなった。棚の背表紙の年号が読めるようになった。長机の木目が見えるようになった。

 蝋の焦げる匂いが立つ。四本ぶんだと、匂いが濃い。



 彼は、窓を背にしない位置に立ち直した。


 それから、最初から話し直した。


「この列が、境界の書類だ」


 速くない。一語ずつ。


「東の三国と、どこまでがうちの土地かを決めた紙が入っている。百年ぶんある。境目は、五十年に一度は揉める」


 読める。


「揉めたとき、こちらが出すのはこの棚だ。向こうも同じものを持っている。写しを二通作って、双方で持つ決まりだ」


 読める。


 彼は棚を一つずつ指しながら、同じ速さで話し続けた。


 わたしは、その全部を受け取った。


 境目は五十年に一度は揉める。写しを二通作って双方で持つ。

 どれも、わたしには何の関わりもない話だ。関わりのない話を、最初から最後まで受け取ったのは、生まれてから数えるほどしかない。



 書庫の奥に、人がいた。


 棚と棚のあいだの床に、帳面が積み上がっている。その脇にミハイルがしゃがんでいた。

 背表紙の年号を確かめ、順に並べ替えている。袖が埃で白くなっていた。


 燭台の光が届いたので、そこが見えるようになった。


 積んである帳面の背が、こちらからも読める。


 同じ年号が、いくつも並んでいた。

 五年前の年だった。


 ヴァイスが、そちらを見た。


 彼の足が、止まった。


 半歩ぶんだけだ。歩みの途中で、片方の足が下りるのが遅れた。

 それだけのことだった。


 彼は何も言わずに通り過ぎた。


 言わなかったことは、読めない。

 読めないけれど、この人はさっきまで、棚を一つずつ指して説明していた。


 その棚だけを、飛ばした。


 ミハイルは顔を上げなかった。

 埃で白くなった袖で額を拭い、また次の一冊に手を伸ばしている。何日もかかる仕事なのだろう。



 書庫を出て、回廊を歩いた。


 北側の回廊は寒い。石の床から冷えが上がってくる。

 ヴァイスが先を歩いていたが、途中で足を緩め、こちらが追いつくのを待った。


 追いついたところで、彼は立ち止まり、振り返り、正面に立った。


「あんた、暗いところで困ると、言わないな」


 わたしは紙を出した。書くのに少しかかった。


『困っていると申し上げると、明かりを増やしていただくことになります』


 ヴァイスはそれを読んだ。


 読んで、しばらく紙を持ったままでいた。

 紙の端が、彼の指のあいだで少し曲がった。


 やがて彼は顔を上げた。


「増やせばいい」


 速くない。


「それだけのことだ」


 わたしは、その七文字を読んだ。


 それだけのこと。


 十八年、それだけのことではなかった。

 蝋燭を三本にしてほしいと言えば、継母は「贅沢な」と言った。窓掛けを開けてほしいと言えば、「日に焼けます」と言われた。何度か言って、言わなくなった。


 言わなくなったことを、この人は「言わないな」と言った。


 言わないことを、責める言い方ではなかった。

 気づいた、という言い方でもなかった。


 書庫で四本の燭台を運んだとき、この人は何も言わなかった。今になって、その話をしている。

 燭台を運ぶ前に言えば、恩着せになる。運んだ直後に言えば、確かめになる。半刻置いてから言えば、どちらでもない。


 そこまで考えてやっているのか。それとも、たまたま今思いついただけなのか。

 この人の顔からは、どちらとも読めなかった。



 その夜、使者の名が届いた。


 テオドールが書状を持ってきて、卓の上でこちらへ向けて置いた。

 紙は、そのために向きを変えられていた。


 王都からの正式な書付だ。角ばった書体で、簡潔に書いてある。


 わたしは、その一行を読んだ。

 紙なら、何度でも読み返せる。角度も、光も、速さも関わりがない。


 ユリウス・ラングレー。

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