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「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


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18/30

第18話 ちゃんと返事をしてくれるから

 十八年、わたしに一度も正面から話しかけなかった男が、十二日かけて、ここまで来た。


 交易のためだという。


 ユリウス・ラングレーは、雪の降り始めた午後に館へ着いた。


 随行は八人。荷は二台。

 王都の馬車は車輪が細く、この土地の道では轍にはまるらしい。門をくぐるとき、後ろの一台が斜めに傾いていた。


 広間に通された彼は、外套を従僕に預け、髪を撫でつけてから、こちらを見た。


 それから、心底気の毒そうな顔をした。


「セレーヌ」


 彼の唇が動く。


「こんな遠くまで。かわいそうに」


 早い。

 八年見てきた唇だが、この人は昔から早い。半分ほどが落ちた。


 落ちた半分は、想像で埋まる。この人の言うことは、いつも同じ形をしている。

 半年ぶりに会って、最初に出てきたのが「かわいそうに」だった。

 この人の中で、わたしはまだ、かわいそうな娘のままなのだろう。かわいそうでいてくれたほうが、都合がいいのだろう。



「王都は変わらないよ。君のいた頃と何も。冬の夜会も例年どおりだ。ああ、そうだ、東屋の薔薇が枯れてね。あれは君が好きだったろう」


 わたしが薔薇を好きだったことは、一度もない。


 八年の婚約のあいだ、この人はわたしに何が好きかを尋ねたことがなかった。

 尋ねなかったのだから、答えたこともない。にもかかわらず、この人の中には「君が好きだったもの」がいくつも溜まっている。

 どこかで作られて、そのまま置かれている。訂正する手立てはない。訂正しようとすれば、まず読唇のことを明かさねばならない。



 ヴァイスが広間に入ってきた。


 彼は真っ直ぐ歩いてきて、ユリウスとわたしのあいだで止まった。

 止まってから、ユリウスの正面に回り込んだ。


「カルネイド辺境伯だ」


 ユリウスが名乗り返す。背中しか見えないから読めない。


 ヴァイスがもう一度、口を開いた。


「妻に話すときは、顔を見て、ゆっくり話せ」


 ユリウスの返事は読めなかった。

 けれど、その後の動きで分かった。


 彼は曖昧に口の端を上げて、わたしのほうを見て、また視線をヴァイスに戻した。

 意味が分からなかった、という顔だ。


 この人は、なぜそう言われたのかを考えなかった。


 ヴァイスは説明しなかった。

 館の者に言ったときと同じだ。顔を見て話せ。それだけ。

 館の者は、その日から全員がそうした。この人は、意味が分からなかったという顔をした。


 同じ一文でも、受け取る側によって、届いたり届かなかったりする。



 夕食の席で、ユリウスの随行者たちが並んだ。


 わたしは長卓の端に座っていた。

 誰も、わたしに話しかけない。読める距離に人がいない。それでよかった。


 随行者の一人が、席を立った。


 灰色の外套の男だった。

 背は高くも低くもない。年は四十ほど。ほかの者と違って、外套を脱いでいない。


 彼は壁際を歩いた。歩きながら、天井の梁を見上げ、扉の数を数えるように首を回している。

 やがて別の随行者と、壁の陰で短く言葉を交わした。


 わたしの視界の端に、その唇が入った。


 角度が悪い。四十五度以上ある。半分どころか、三割も取れない。


「ちょう」。そこで唇が影に入る。

 次が読めない。

「ごねん」


 そこで男が振り向きかけた。

 わたしは目を伏せた。


 二つの断片が残った。意味にならない。


 王都の男が壁を見ながら何か数えていた。それだけのことだ。


 ただ、この館に来て二月になるが、壁を数える客を見たのは初めてだった。



 食後、ユリウスが席を移してきた。


 彼はわたしの隣ではなく、卓を回り込んで斜め向かいに座った。座ってから、こちらへ体を向けた。


 ヴァイスに言われたことを、彼なりに守ろうとしたのかもしれない。


「セレーヌ。報告があるんだ」


 彼は少しだけゆっくりになった。


「妹君と、婚約したよ」


 わたしは、その唇を見ていた。


「リリア嬢だ。まだ十六だが、聡明な方でね。ご家族もたいそう喜んでくださっている」


 彼はそこで、杯を置いた。


「君との縁が切れて、ヴィオレ家とは終わりかと思っていたが。かえって良い形になった。妹君は」


 彼の唇が、そこで一度止まった。


 言うかどうかを迷う人間は、必ず一度止まる。

 止まって、それから言う。言わないほうを選ぶ人間は、話題を変える。


 ユリウスは、言うほうを選んだ。


「あの子は、ちゃんと返事をしてくれるからね」


 その一文だけ、ゆっくりだった。


 心から言うとき、人の口はすこし遅くなる。



 わたしは、何も書かなかった。


 紙は袂にある。炭筆もある。

 出さなかった。


 代わりに、その唇の形を覚えた。


 ち。ゃ。ん。と。へ。ん。じ。を。

 上の歯が下唇に触れる位置。舌が見える角度。最後に口の端が持ち上がる、その持ち上がり方。


 全部、覚えた。


 覚えたところで、使い道はない。

 証人資格のない者が「この人がこう言った」と申し立てても、この国では何も起きない。言った言わないの話にすらならない。話にするには、まず耳が要る。


 それでも、覚えた。

 十八年、そうやって生きてきたからだ。読めるものは読む。覚えられるものは覚える。使い道は、あとで考える。



 ユリウスが立ち上がって、離れていった。


 彼は最後に、わたしの肩に手を置こうとして、途中でやめた。

 やめてよかったと思う。触られていたら、わたしは覚えるのをやめたかもしれない。



 夜、書記官房に灯りがついていた。


 通りかかったら、扉が半分開いていた。

 この館では珍しい。閉め忘れる者がいない館だ。


 ミハイルが、卓に向かっていた。


 彼はわたしに気づくと、慌てて立ち上がり、正面に回り込んだ。

 それから、口を開きかけて、やめた。紙を取った。


 書いている時間が長い。

 書いては止まり、また書いている。


 やがて彼は、紙をこちらへ寄越した。


『五年前の控帳に おかしなものがあります

 宣誓の日付と 証人が領内にいた日付が 合いません

 三人のうち 二人が その日 領外にいた記録があります

 テオドール様に 明日 申し上げます』


 字は、相変わらず汚かった。


 わたしは、それを二度読んだ。


 五年前。


 中庭で読んだ言葉が、頭の中で形を取り戻した。

 兄は、言っていない。言っていないことを、言ったことにされた。五年だ。


 わたしは紙を裏返して、書いた。


『それは、何の宣誓ですか』


 ミハイルは受け取って、読んだ。

 少し困った顔をして、書き足した。


『まだ分かりません 名前のところが抜かれてます

 でも 日付は消せませんから』


 消せない。

 この土地の控帳は、消せない。間違いも、そのまま残る。二重線を引いて、上に正しいものを書き、日付と名を添える。


 王都では逆だ。

 言い間違えたことは、なかったことにできる。言っていないことは、三人が聞いたと言えば、あったことになる。


 ミハイルは紙を折って、袖に入れた。

 それから、掌を下に向けて、一度だけ下げた。


 覚えた合図を、正しく使ってみせた。


 わたしは口の端を動かした。彼はそれを見て、耳を赤くした。



 部屋に戻ると、卓の上に招きの書付が置かれていた。


 秋仕舞いの夜会。三日後。

 領内の有力者と、王都からの客が集まるという。


 窓の外で、雪が降っていた。


 明日、ミハイルはテオドールに報告するという。


 明日。

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