第18話 ちゃんと返事をしてくれるから
十八年、わたしに一度も正面から話しかけなかった男が、十二日かけて、ここまで来た。
交易のためだという。
ユリウス・ラングレーは、雪の降り始めた午後に館へ着いた。
随行は八人。荷は二台。
王都の馬車は車輪が細く、この土地の道では轍にはまるらしい。門をくぐるとき、後ろの一台が斜めに傾いていた。
広間に通された彼は、外套を従僕に預け、髪を撫でつけてから、こちらを見た。
それから、心底気の毒そうな顔をした。
「セレーヌ」
彼の唇が動く。
「こんな遠くまで。かわいそうに」
早い。
八年見てきた唇だが、この人は昔から早い。半分ほどが落ちた。
落ちた半分は、想像で埋まる。この人の言うことは、いつも同じ形をしている。
半年ぶりに会って、最初に出てきたのが「かわいそうに」だった。
この人の中で、わたしはまだ、かわいそうな娘のままなのだろう。かわいそうでいてくれたほうが、都合がいいのだろう。
「王都は変わらないよ。君のいた頃と何も。冬の夜会も例年どおりだ。ああ、そうだ、東屋の薔薇が枯れてね。あれは君が好きだったろう」
わたしが薔薇を好きだったことは、一度もない。
八年の婚約のあいだ、この人はわたしに何が好きかを尋ねたことがなかった。
尋ねなかったのだから、答えたこともない。にもかかわらず、この人の中には「君が好きだったもの」がいくつも溜まっている。
どこかで作られて、そのまま置かれている。訂正する手立てはない。訂正しようとすれば、まず読唇のことを明かさねばならない。
ヴァイスが広間に入ってきた。
彼は真っ直ぐ歩いてきて、ユリウスとわたしのあいだで止まった。
止まってから、ユリウスの正面に回り込んだ。
「カルネイド辺境伯だ」
ユリウスが名乗り返す。背中しか見えないから読めない。
ヴァイスがもう一度、口を開いた。
「妻に話すときは、顔を見て、ゆっくり話せ」
ユリウスの返事は読めなかった。
けれど、その後の動きで分かった。
彼は曖昧に口の端を上げて、わたしのほうを見て、また視線をヴァイスに戻した。
意味が分からなかった、という顔だ。
この人は、なぜそう言われたのかを考えなかった。
ヴァイスは説明しなかった。
館の者に言ったときと同じだ。顔を見て話せ。それだけ。
館の者は、その日から全員がそうした。この人は、意味が分からなかったという顔をした。
同じ一文でも、受け取る側によって、届いたり届かなかったりする。
夕食の席で、ユリウスの随行者たちが並んだ。
わたしは長卓の端に座っていた。
誰も、わたしに話しかけない。読める距離に人がいない。それでよかった。
随行者の一人が、席を立った。
灰色の外套の男だった。
背は高くも低くもない。年は四十ほど。ほかの者と違って、外套を脱いでいない。
彼は壁際を歩いた。歩きながら、天井の梁を見上げ、扉の数を数えるように首を回している。
やがて別の随行者と、壁の陰で短く言葉を交わした。
わたしの視界の端に、その唇が入った。
角度が悪い。四十五度以上ある。半分どころか、三割も取れない。
「ちょう」。そこで唇が影に入る。
次が読めない。
「ごねん」
そこで男が振り向きかけた。
わたしは目を伏せた。
二つの断片が残った。意味にならない。
王都の男が壁を見ながら何か数えていた。それだけのことだ。
ただ、この館に来て二月になるが、壁を数える客を見たのは初めてだった。
食後、ユリウスが席を移してきた。
彼はわたしの隣ではなく、卓を回り込んで斜め向かいに座った。座ってから、こちらへ体を向けた。
ヴァイスに言われたことを、彼なりに守ろうとしたのかもしれない。
「セレーヌ。報告があるんだ」
彼は少しだけゆっくりになった。
「妹君と、婚約したよ」
わたしは、その唇を見ていた。
「リリア嬢だ。まだ十六だが、聡明な方でね。ご家族もたいそう喜んでくださっている」
彼はそこで、杯を置いた。
「君との縁が切れて、ヴィオレ家とは終わりかと思っていたが。かえって良い形になった。妹君は」
彼の唇が、そこで一度止まった。
言うかどうかを迷う人間は、必ず一度止まる。
止まって、それから言う。言わないほうを選ぶ人間は、話題を変える。
ユリウスは、言うほうを選んだ。
「あの子は、ちゃんと返事をしてくれるからね」
その一文だけ、ゆっくりだった。
心から言うとき、人の口はすこし遅くなる。
わたしは、何も書かなかった。
紙は袂にある。炭筆もある。
出さなかった。
代わりに、その唇の形を覚えた。
ち。ゃ。ん。と。へ。ん。じ。を。
上の歯が下唇に触れる位置。舌が見える角度。最後に口の端が持ち上がる、その持ち上がり方。
全部、覚えた。
覚えたところで、使い道はない。
証人資格のない者が「この人がこう言った」と申し立てても、この国では何も起きない。言った言わないの話にすらならない。話にするには、まず耳が要る。
それでも、覚えた。
十八年、そうやって生きてきたからだ。読めるものは読む。覚えられるものは覚える。使い道は、あとで考える。
ユリウスが立ち上がって、離れていった。
彼は最後に、わたしの肩に手を置こうとして、途中でやめた。
やめてよかったと思う。触られていたら、わたしは覚えるのをやめたかもしれない。
夜、書記官房に灯りがついていた。
通りかかったら、扉が半分開いていた。
この館では珍しい。閉め忘れる者がいない館だ。
ミハイルが、卓に向かっていた。
彼はわたしに気づくと、慌てて立ち上がり、正面に回り込んだ。
それから、口を開きかけて、やめた。紙を取った。
書いている時間が長い。
書いては止まり、また書いている。
やがて彼は、紙をこちらへ寄越した。
『五年前の控帳に おかしなものがあります
宣誓の日付と 証人が領内にいた日付が 合いません
三人のうち 二人が その日 領外にいた記録があります
テオドール様に 明日 申し上げます』
字は、相変わらず汚かった。
わたしは、それを二度読んだ。
五年前。
中庭で読んだ言葉が、頭の中で形を取り戻した。
兄は、言っていない。言っていないことを、言ったことにされた。五年だ。
わたしは紙を裏返して、書いた。
『それは、何の宣誓ですか』
ミハイルは受け取って、読んだ。
少し困った顔をして、書き足した。
『まだ分かりません 名前のところが抜かれてます
でも 日付は消せませんから』
消せない。
この土地の控帳は、消せない。間違いも、そのまま残る。二重線を引いて、上に正しいものを書き、日付と名を添える。
王都では逆だ。
言い間違えたことは、なかったことにできる。言っていないことは、三人が聞いたと言えば、あったことになる。
ミハイルは紙を折って、袖に入れた。
それから、掌を下に向けて、一度だけ下げた。
覚えた合図を、正しく使ってみせた。
わたしは口の端を動かした。彼はそれを見て、耳を赤くした。
部屋に戻ると、卓の上に招きの書付が置かれていた。
秋仕舞いの夜会。三日後。
領内の有力者と、王都からの客が集まるという。
窓の外で、雪が降っていた。
明日、ミハイルはテオドールに報告するという。
明日。




