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「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


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19/30

第19話 半刻

 秋仕舞いの夜会は、蝋燭だけで灯される。


 これはこの土地の決まりごとで、収穫の終わりに火を惜しむ意味があるらしい。

 大広間の壁に、燭台が六つ。天井には何もない。


 炎は、揺れる。


 揺れれば、唇に落ちる影も揺れる。

 誰も、そんなことは考えない。考える理由がないからだ。



 わたしは入口に近い席にいた。


 卓は三つに分けられていた。中央に領内の有力者、東側に王都からの客、西側に館の者。

 人は五十人ほど。この館に来てから、いちばん多い。


 床は震えない。厚い石の上に木を張ってあるから、人が何人歩いても伝わってこない。

 誰がどこにいるのかを、目だけで追わなければならない。


 最初の一刻は、まだよかった。


 挨拶が続くあいだ、人は一人ずつ喋る。

 一人ずつなら、追える。この夜会は、はじめのうち、わたしにとって親切な形をしていた。

 テオドールが領内の者を紹介し、ヴァイスが短く応じる。全部は読めないが、要点は取れる。



 二刻目に入って、卓が崩れた。


 人が席を立ち、あちこちで立ち話が始まる。

 同時に、三つも四つも会話が動く。


 わたしの目は、一つしか追えない。


 右の卓で誰かが笑う。左で誰かが手を振る。正面で二人が顔を寄せる。

 どれを追っても、追った先が終わっている。


 そのうえ、扇が出た。


 王都から来た客の中に、婦人が四人いた。彼女たちは揃って扇を持っている。

 この土地の女は扇を使わない。冬に扇は要らないからだ。


 王都の婦人たちは、話すたびに扇を開いた。

 開けば、口元が隠れる。隠れれば、読めない。


 四人が集まって、扇の内側で何か言い交わし、それから笑った。

 笑ったことは分かる。肩が揺れたからだ。何を笑ったのかは、分からない。


 王都の広間に、戻ったようだった。

 二月ぶりに、世界がまた閉じ始めていた。



 額の奥が、痛み始めた。


 目の裏を、細い針で押されるような痛み。

 こうなることは知っている。


 母は半刻と言った。休まずに読み続けられるのは、それくらいだと。


 わたしは、三刻近く読んでいた。


 目が拾っても、頭が繋がらなくなる。繋がらないものを無理に繋ごうとすると、痛みが来る。

 今、それが来ている。


 あと少し。

 わたしは自分にそう言った。


 この夜会で、王都から来た者が何を話すのか。それを知っておきたかった。

 知ってどうするのかは、考えていない。十八年、そこまで考えたことがない。読めるものは読む。それだけだ。



 広間の隅に、動きがあった。


 灰色の外套の男だった。


 彼は柱の陰に立っていた。

 誰かと向かい合っている。相手は背中しか見えない。背が高く、肩幅が広い。この土地の者ではない服だ。


 二人の距離が近い。近い距離で話す人間は、声を落とす。声を落とす人間は、口の開きが小さくなる。

 開きが小さければ、読める量が半分になる。


 わたしは目を凝らした。


 柱のそばに燭台がある。だが炎が揺れていた。

 揺れるたび、男の口元に影が落ちる。落ちて、外れて、また落ちる。


 拾えるのは、影が外れたわずかな間だけだ。


 男の唇が動く。


「あす」


 影。


「ちょう」


 影。


 三つ目を待った。


 そのとき、右の卓で笑いが起きた。

 人が三人、こちらへ体を向けた。誰かがわたしに何か言おうとしている。


 目が、そちらへ引かれた。


 引かれた先で、その人は結局何も言わずに通り過ぎた。


 柱のほうへ目を戻した。



 痛みが、こめかみを抜けた。


 視界の端が白く滲む。

 こういうときは、一度目を閉じるしかない。


 わたしは目を伏せた。


 膝の上の手を見た。指の関節が白い。

 息を吸って、吐いた。


 どれくらいそうしていたのか、分からない。長くはない。


 顔を上げた。



 柱の陰には、誰もいなかった。


 燭台だけが揺れている。


 わたしは広間を見渡した。

 灰色の外套は、東側の卓に戻っていた。杯を持って、隣の男と何か話している。


 背の高いほうの男は、どこにもいなかった。


 入口の扉が閉まっていた。開いた形跡があるかどうかは、分からない。

 床が震えていれば、誰かが出て行ったことくらいは分かったのに。



 読み損ねた。


 わたしは、それを膝の上で処理した。


 いつものことだ。

 王都では毎日あった。読めない会話が一日に何十とあって、そのほとんどは何でもない話だった。天気の話。人の噂。誰が誰を嫌っているか。


 半刻ぶんの空白は、十八年ぶんの中に、数え切れないほどある。


 たいしたことではない。


 卓の向こうで、テオドールが領内の者と話していた。

 その隣に、ミハイルはいなかった。書記官房で棚に向かっているのだろうと思った。あの子はいつも、そうしている。



 夜会は、深更まで続いた。


 部屋に戻ったとき、頭の芯がまだ痛んだ。


 ノエルが冷やした布を持ってきて、正面に回ってから口を開いた。


「よろしいですか」


 一拍。


「お顔の色が、よろしくございません」


 わたしは掌を上に向けて、それから、こめかみを二度、軽く叩いた。

 合図ではない。合図にはない動きだ。


 ノエルはそれを見て、何も聞かずに布を渡した。

 布は冷たく、額に当てると、痛みの縁が少しだけ丸くなった。


 彼女は蝋燭を一本だけ残して、下がっていった。


 寝台に入る前に、ミハイルの言葉を思い出した。


 テオドール様に、明日、申し上げます。


 明日は、今日になっていた。

 夜会で、彼の姿を見なかった。書記官房にこもっていたのだろう。


 あの子は、明日また、報告するつもりでいる。


 わたしは布を額に載せたまま、目を閉じた。



 翌朝、目が覚めたとき、館の様子が違った。


 いや、様子が違うと、なぜ分かったのか。


 床は震えない。この館の床は、人が走っても伝わってこない。

 それでも、違った。


 窓の外を、人が通った。走っていた。

 もう一人、通った。同じ方向へ。


 わたしは寝衣の上に外套を羽織って、部屋を出た。


 回廊に人がいた。

 厨房の女が、両手を口に当てて立っている。彼女はわたしを見て、何か言おうとして、言えずに、北のほうを指した。


 北。書庫のある側だ。


 わたしは歩いた。歩いてから、走った。



 書庫の前に、人だかりができていた。


 二十人ほどが、廊下を塞いでいる。

 誰も、わたしに気づかない。誰も、こちらを向かない。


 わたしは人の隙間を縫った。


 テオドールが、床に膝をついていた。


 その先に、ミハイルがいた。


 仰向けだった。

 袖が埃で白い。昨日と同じ袖だ。片手が、開いたまま床に落ちている。掌に、炭がついていた。


 彼は、動かなかった。


 袖に、紙が挟まっていた。

 半分だけ出ている。折り目のついた紙だ。昨夜、彼が袖に入れたあの紙かどうかは、ここからでは分からない。


 テオドールが両手を膝に置いていた。

 帳面を持つときのあの手が、何も持たずに、そこにあった。



 誰かがわたしの肩に触れた。


 振り返ると、ヴァイスがいた。


 彼はわたしの正面に回り込んだ。

 こんなときでも、回り込んだ。


 顔を、こちらの目の高さに下ろす。


 ゆっくりと、口を開いた。


「セレーヌ」


 名を呼ばれた。

 この人が、そう呼んだのは初めてだった。二月のあいだ、ずっと「あんた」だった。


 彼は一度そこで切って、こちらが受け取ったのを確かめてから、続けた。


「ミハイルが、死んだ」


 一語ずつ、置くように。


 わたしは、その四文字を読んだ。


 一語も、落ちなかった。

 こんなときでも、この人の言葉は全部届く。



 昨夜、広間の隅で、二人の男が言葉を交わしていた。


 わたしは、それを見ていた。


 見ていたのに、目を伏せた。


 半刻。

 たった、半刻。

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