第20話 抜かれた頁
人が死ぬと、紙が増える。
テオドールは、一晩で十四枚書いた。
どれにも、ミハイルの名前があった。
死亡の届。領主への報告。神殿への通知。遺族への書状。書記官房の欠員届。彼が担当していた帳面の引き継ぎ書。
わたしはその十四枚を、卓の端から見ていた。
テオドールの字は、いつもと同じだった。
角ばっていて、線が細い。震えていない。
書き終えるたび、彼は紙を両手で揃えて、隅に置いた。
置き方も、いつもと同じだった。角を合わせて、二度、指で押さえる。
人が死んでも、この人の手はこの人の手のままだった。
それを見ていて、わたしは初めて、この人が耐えているのだと分かった。
ミハイルは、後頭部を打っていた。
書庫の梯子から落ちたのだと、最初は言われた。
棚の上段の帳面を取ろうとして、足を踏み外したのだと。
わたしはそれを聞いて、書庫へ行った。
梯子は、棚の三列目に立てかけてあった。
ミハイルが倒れていたのは、一列目の前だ。
二列ぶん、離れている。
落ちた者が二列ぶん転がるには、あの梯子は低すぎた。天井まである棚の、三段目までしか届かない長さだ。
紙に書いて、テオドールに渡した。
彼は読んで、それを持ったまま書庫へ入り、梯子の位置を見て、床の位置を見て、戻ってきた。
「役人には、申し上げます」
彼の唇は、そこで一度止まった。
「役人が、どう書くかは、分かりませぬ」
書庫の検分に立ち会った。
五年前の年号の棚が、崩れたままになっていた。
ミハイルが並べ替えていた途中だ。床に積まれた帳面が、そのままになっている。
テオドールが、一冊ずつ確かめていった。
途中で、彼の手が止まった。
彼は帳面を開いたまま、しばらく動かなかった。
それから、こちらへ体を向けた。
「奥様」
彼は帳面をこちらへ差し出した。開いた頁を、わたしのほうへ向けて。
綴じ糸が見えていた。
頁が、抜かれている。
切り取られたのではない。糸を解いて、一枚抜いて、また綴じ直してある。
糸の色が、前後と少し違った。ほんのわずかだ。並べて見なければ分からない。
丁寧な仕事だった。素人ではない。
前後の頁の日付を見た。
抜かれているのは、五年前の春だった。
わたしは書いた。
『何の記録ですか』
テオドールは紙を読んで、首を横に振った。
「宣誓の控えでございます。この年の春の分は、ここに綴じてございました」
彼は帳面の背を撫でた。
指の腹を添わせる、あの撫で方だった。
「書いておらぬことは、ございませんでした」
いつもの言葉だった。
いつもと違ったのは、そのあとだった。
「ですが」
彼の唇が、少し崩れた。
「書いたものを抜かれては、どうにもなりませぬ」
テオドールは帳面を閉じた。
両手を使わなかった。片手で、倒すように閉じた。
その日の夕方、門で人数が合わなくなった。
ユリウスの随行は八人で来た。
帰りの支度をしているのは、七人だった。
灰色の外套の男が、いなかった。
門番の記録では、夜が明ける前に馬で西へ出ている。一人で。
書付は残っていた。この土地では、門を出るときも書付を作る。名も、時刻も、書いてある。
書いてあるのに、追えなかった。
この土地では、書いたものが主だ。
書いてある。名も、時刻も、向かった方角も。
それでも、雪は書付を読まない。
ヴァイスが、追跡を出そうとした。
門の外に立って、街道の先を見ていた。
わたしは少し離れたところにいた。
空が低い。雲が地面に近い。
風が止んでいた。この土地では、風が止むと雪が来る。
最初の一粒が、彼の外套の肩に落ちた。
二粒目が、わたしの手の甲に落ちた。
それから、急に増えた。
門番の老人が、街道のほうを見て、首を横に振った。
彼はヴァイスの正面に回ってから、口を動かした。
「峠は、もう埋まります」
ヴァイスは動かなかった。
「今から出れば、途中で立ち往生いたします。馬も、人も」
老人は、こちらにも同じことを言った。
わざわざ体の向きを変えて、もう一度。
この人たちは、そういうことをする。
一度言えば済むことを、二度言う。二度目は、わたしのために向きを変えて。
ミハイルも、そうだった。
六十日。
道は、六十日開かない。
ユリウスの一行は、前日の朝に発っていた。
間に合っている。灰色の外套も、それに紛れて西へ抜けた。
わたしたちだけが、ここに閉じ込められた。
部屋に戻って、手鏡の前に座った。
母の手鏡だ。柄の銀が黒ずんで、握るところの模様が擦り切れている。
鏡の中の自分を見た。
この顔は、動かない。十八年、動かないほうが安全だと決めて、そうしてきた。
あの夜、わたしは柱の陰を見ていた。
男の唇が動いていた。あす。ちょう。二つ拾って、三つ目を待った。
右の卓で笑いが起きて、目がそちらへ引かれた。戻したときには、影が落ちていた。
目を、伏せた。
痛かったから。
疲れていたから。
いつものことだと、思ったから。
読めなかったのか。
読まなかったのか。
その二つの違いを、わたしは決められずにいた。
母は半刻と言った。半刻を超えれば、頭が繋がらなくなる。それは体のことで、わたしの意志ではない。
けれど、目を伏せると決めたのは、わたしだ。
あと一つ、と粘ることもできた。
粘ったことは、これまで何度もあった。粘って、何も出てこなかったことも、何度もあった。
昨夜だけ、粘らなかった。
三つ目が、あの二語のあとに来るはずだった。
あす。ちょう。そのあとに、何が来たのか。
ちょう。帳。控帳。
あす。明日。
明日、控帳を。
その先が、ない。
背後で、床が震えなかった。
振り返ると、ノエルが戸口に立っていた。
この館の床では、彼女が来たことが分からない。
彼女は部屋に入って、卓を回り込み、正面に立った。
「よろしいですか」
一拍。
「お嬢――奥様」
言い直した。
「あの広間には、五十人おりました」
ノエルの唇は、ゆっくりだった。
「五十人おりまして、誰ひとり、あの二人を見ておりません。あたくしも、見ておりません」
彼女はそこで一度切った。
「見ていなかったのは、あの広間にいた全員でございます」
わたしは、首を横に振った。
ノエルの目が、揺れた。
わたしは紙を取って、書いた。
『あの五十人は、読めません』
書いて、渡した。
ノエルは読んだ。
読んで、二度目を読んだ。三度目に入って、まだ紙から目を上げなかった。
『あの部屋で、読めたのはわたしだけです』
二枚目を渡した。
ノエルは受け取らなかった。
受け取らずに、両手で顔を覆った。
わたしは二枚目を卓に置いた。
置いてから、書き足した。三枚目は、渡さなかった。
『あの子は、明日申し上げると、わたしに書いて見せました』
窓の外は、白かった。
雪が横に流れている。風が戻ってきたのだ。
六十日。
この土地から、出られない。
追えない。調べられない。誰にも会えない。
わたしにできることは、思い出すことだけだった。




