第21話 三人いれば
紙を、四十枚もらった。
テオドールに書いて頼んだ。何に使うのかは書かなかった。彼も尋ねなかった。
紙は書記官房の余りで、端が不揃いだった。控帳に綴じるには短すぎるものらしい。
持ってきたのはテオドールで、束の上に手を置いてから離した。何かを言うかと思ったが、言わなかった。あの人は、ミハイルの葬いの日から、言葉が減っている。
わたしは卓に紙を積み、炭筆を削り、蝋燭を三本立てた。
雪の日は、灯りを増やしても読むものがない。
外に出られない。人に会わない。誰も口を動かさない。
窓の外は白いだけだ。二日に一度、雪かきの列が中庭を横切る。それを見ていても、何も入ってこない。彼らは前を向いて歩くから。
だから、書くことにした。
十八年ぶんの、読んだ言葉を。
最初に書いたのは、ミハイルの紙だった。
五年前の控帳に おかしなものがあります。宣誓の日付と 証人が領内にいた日付が 合いません。
あの子の字は汚かった。わたしの字は、母に習ったから読みやすい。
同じ文が、違う形になって紙に載った。
次に、柱の陰の断片を書いた。
あす。ちょう。
二語のあとに、白い場所を空けた。
三語目が入るはずだった場所だ。空けたまま、次の紙へ移った。
三日目には、王都のことを書き始めていた。
順序はなかった。思い出した端から書いた。
厨房の男が、隣の男の妻のことを何と言っていたか。
侍女の一人が、暇を出される前の晩に、誰に向かって何を言ったか。
継母が父に借財の話をするとき、どの数字で口ごもったか。
どれも、何の役にも立たない。
役に立たないものを、わたしは十八年ぶん抱えている。
書いていると、指が勝手に動く。
どの唇も、書き出すと必ず最後まで出てくる。途中で止まったことがない。自分でも、どこにこれだけのものが入っていたのか分からない。
「奥様」
ノエルが正面に回って、口を開いた。
卓の上には、書いた紙が三十枚ほど溜まっていた。
「これは、何を」
わたしは書いた。
『読んだものを、書いています』
「……読んだ、もの」
彼女は紙の一枚を手に取った。
『四の月十二日。厨房。カルロが、パンの目方をごまかしていると言われて、言い返した。言い返す前に、右の手を後ろに回した』
ノエルの目が、紙の上を往復している。
「奥様。これは、いつのことでございますか」
わたしは書いた。
『六年前です』
ノエルが顔を上げた。
「六年」
『意味の分かる話は、意味を覚えます。覚えたら、形は要らなくなるので、忘れます』
わたしは書き足した。
『意味の分からない話は、形しか残りません。だから、消えません』
ノエルは、その紙を長いこと見ていた。
「……存じませんでした」
彼女はそう言って、紙を元の位置に戻した。
「十五年、お側におりまして」
それから、卓の端に腰を下ろした。
「あたくしにも、書かせていただけませんか」
わたしは首を横に振って、紙を渡した。
『あなたには、書けません。あなたは、耳で聞きました』
ノエルは受け取って、読んで、口を押さえた。
この人は十五年、わたしのそばで耳を使ってきた。
同じ厨房にいて、同じ会話を聞いて、そのほとんどを忘れた。忘れるのが普通だ。人は、意味を受け取ったら形を捨てる。
捨てられないほうが、おかしいのだ。
十日ほど書き続けた。
紙は四十枚では足りず、テオドールに三度追加を頼んだ。
三度目のとき、彼は紙の束と一緒に、新しい炭筆を六本つけて寄越した。
指の腹が黒くなった。洗っても取れない。
右の手首が痛む。長く書くと、こうなる。
それでも書いた。
書くと、順番が見えてくる。
書く前は、頭の中で全部が同じ高さに積まれていた。書くと、日付の順に並ぶ。並ぶと、隣同士が見えるようになる。
頭の中では、六年前の厨房と、去年の夜会が、同じ棚に載っていた。
紙の上では、そうならない。
十三の年の茶会が出てきたのは、十二日目だった。
王暦四〇七年、春。ラングレー侯爵邸。
わたしは庭に面した長椅子に座らされ、置いておかれた。菓子は出されたが、触らなかった。
生垣の向こう、噴水のそばに、四人の男が立っていた。
三人は若く、一人は白髪だった。
白髪の男の唇は、この上なく読みやすかった。
速くない。省略しない。一語ずつ、粒を揃えて置いていく。
万人に届くように訓練された喋り方だった。
わたしは、その形を書き写した。
書き写すというより、口の動きをそのまま指に降ろす作業だった。
わたしの中では、あの唇はまだ動いている。五年前の春の光の下で、粒を揃えて。
「よく聞きなさい」
炭筆が、紙の上で止まった。
「三人。三人いれば、それは真実になります」
書いた。
書いてから、次を書いた。
「日付は、こちらで合わせます」
書いた。
最後の一つを書くとき、手が止まった。
「東の、あの家です」
東の家。
わたしは炭筆を置いた。
置いた指が、紙の上に炭の跡を残した。拭くと、伸びて広がった。
十三のわたしには、これが何のことか分からなかった。東の家がどこの家か、日付を合わせるとは何のことか、何ひとつ分からなかった。
分からないものは、意味に汚れない。だから、形だけが五年残った。
今は、意味が入る。
空いていた場所に、順に嵌まっていく。
嵌まる音は聞こえない。聞こえないけれど、嵌まったことは分かる。
この国で、東の家といえば。
三人いれば真実になるものといえば。
日付を合わせる必要があるものといえば。
わたしは紙をめくった。
ミハイルの紙を書き写した、最初の一枚まで戻った。
宣誓の日付と、証人が領内にいた日付が、合いません。
三人のうち、二人が、その日、領外にいた記録があります。
日付は、こちらで合わせます。
三人いれば、それは真実になります。
わたしは、年を数えた。
あの茶会は、王暦四〇七年の春だった。
庭の生垣に白い花がついていた。この国では、あの花は春にしか咲かない。
中庭で読んだ言葉を思い出す。
五年だ。
あの人はそう言った。この土地に来た日の夜、松明の下で。
今は王暦四一二年の冬。
五年前は、四〇七年。
同じ年だった。
わたしが庭の長椅子で四人の男を読んだ年と、この人の兄が処断された年が。
卓の上の蝋燭が、一本消えた。
芯が尽きたのだろう。
わたしは、二本の灯りの中で座っていた。
十三歳のわたしは、庭の長椅子に置いておかれた。
誰も、あの娘に何かを見られるとは思わなかった。証人資格を持たない者は、何を見ても、法の上では何も見ていない。
だから、白髪の男は生垣のほうを一度も見なかった。
見る必要が、なかったのだ。
あそこにいたのは、耳の聞こえない娘だった。この国でいちばん安全な相手だ。
右の手首が痛む。指の腹は黒い。
わたしは炭筆を握り直した。
わたしは、五年前から、これを持っていた。
持っていて、五年、何も知らずにいた。




