第22話 ライナルト
紙束を、机に置いた。
あの人は、それを読んだ。
一枚目で、手が止まった。
執務室には、大きな窓が二つある。冬でも、この部屋がいちばん明るい。
雪が光を跳ね返して、天井まで白い。
わたしが渡したのは、五枚だった。
四十枚以上書いたうちの、五枚。
十三の年の茶会の分と、ミハイルの紙を書き写した分と、柱の陰の断片。
ヴァイスは一枚目を読み、二枚目に移り、そこで戻った。
一枚目を、もう一度読んだ。
彼の指が、紙の縁を押さえている。押さえる力が強い。紙が波打っていた。
この人は控帳の紙を、いつも折らないように扱う。テオドールに躾けられているのだろう。今日は、それを忘れている。
三枚目を読むとき、彼は椅子に座った。
立ったまま読めなくなったらしい。
四枚目。
五枚目。
読み終えて、彼は五枚を揃えた。揃えて、机に置いた。
それから、こちらへ体を向けた。
いつもより、遅かった。
「これを」
彼は一度、そこで止まった。
「あんたが、見たのか」
わたしは指を一本立てた。
彼はその指を見て、また紙を見た。
しばらく、動かなかった。
窓の外で雪が降っている。風がないので、まっすぐ落ちてくる。
部屋の中は暖炉で暖かい。薪が爆ぜているのだろう、時々、床にごく細かい震えが来る。
やがて彼が立ち上がった。
立ち上がって、窓のほうへ行き、戻ってきた。
戻ってきて、わたしの正面に立った。
「兄が、いた」
速くない。一語ずつ。
「ライナルト・カルネイド。八つ上だった」
わたしは、その名を読んだ。
この土地に来て三月になる。館の誰も、その名を口にしなかった。
肖像もない。位牌もない。ないというより、置かれていない。
書庫の五年前の棚を、この人は説明の途中で飛ばした。館の者は誰も、その年の話をしない。
触れない場所が一つある家というのは、外から来た者にはすぐ分かる。ヴィオレ邸にも、十二年閉じたままの部屋があった。
「五年前の春、王都に呼ばれた。境界の書類のことでだ。三国との境目が、また揉めた」
彼は続けた。
「兄は行った。ひと月で帰る予定だった」
彼の唇が、少し止まる。
「帰らなかった」
その二日前に、兄から書状が来ていたのだという。
境目の件は片づいた、土産に王都の菓子を買った、雪までには戻る。そう書いてあったと、彼は言った。
書状は、今も執務室の抽斗にあるらしい。
「宣誓があった。王都で」
彼は言った。
「ライナルト・カルネイドは、隣国と通じている。三国との境目を、金で売った。証人が三人、それを聞いたと言った」
三人。
「兄は、否認した。一度も言っていないと言った」
彼の顎が、わずかに動く。
「だが、この国では、声が勝つ」
わたしは、知っている。
六つの頃から、知っている。
声が勝つ。だから、わたしの意思は継母の口から出る。だから、わたしの婚約は扉の向こうで決まる。
同じ規則が、この人の兄を殺した。
「控帳には、矛盾があった」
ヴァイスは続けた。
「兄が隣国の使いと会ったとされる日、兄は王都の宿にいた。宿の控帳に名がある」
彼は自分の手を見た。
「だが、控帳は控えだ。三人が聞いたと言えば、それが本物になる」
わたしは書いた。
『ご兄上は』
書きかけて、手が止まった。
書ける言葉を探した。見つからなかった。
ヴァイスは、書きかけの紙を見た。
見て、こちらの顔を見た。
「処断された。その年の夏だ」
彼はそう言った。
「俺は二十二だった。爵位を継いだのは、三年前になる。それまでの二年、王都に通った」
彼の唇が、また止まった。
「五年、同じことを言い続けた。兄は言っていない、と」
止まって、続いた。
「誰も、聞かなかった」
誰も、聞かなかった。
わたしは、その五文字を読んだ。
この人は、耳のある人だ。声を出せる人だ。この国で、証人資格を持つ人だ。
その人が、五年、聞かれなかった。
わたしは聞けない。この人は聞かれない。
欠けている場所が、違うだけだった。
わたしは炭筆を取った。
『わたしは、聞けません』
書いて、渡した。
ヴァイスが読む。
わたしはもう一枚に書いた。書くのに、時間がかかった。何度か止まって、書き直した。
『ですが、あなたのお兄様が何を言わなかったか、わたしには読めます』
渡した。
彼は、それを読んだ。
読んで、動かなかった。
彼の喉が、一度上下した。
それから、口を開きかけて、閉じた。
開きかけて、閉じたものは、読めない。
わたしはその形になる前のものを見ていた。
見ていて、はじめて、この人も言葉に詰まることがあるのだと知った。
やがて彼は、二枚目の紙を机に置いた。
置いて、掌でその上を一度だけ押さえた。書状を扱う手つきではなかった。もっと別のものを押さえる手つきだった。
テオドールが呼ばれた。
彼は五枚の紙を、老眼で離して読んだ。
読み終えるまで、誰も何もしなかった。
やがて彼が顔を上げた。
「奥様。この、白髪の男は」
わたしは書いた。
『名前は知りません。五年前、ラングレー侯爵邸の庭にいました』
テオドールは紙を読み、しばらく黙った。
それから、ヴァイスのほうを向いた。
向いて、何か言った。背中だから読めない。
ヴァイスの顔が、動かなくなった。
この人の顔は、もともとあまり動かない。動かない顔がさらに動かなくなると、そこが石のようになる。
彼はテオドールに何か短く返し、それから、こちらへ向き直った。
「ラングレー侯爵邸に、五年前、白髪の男は一人しかいない」
彼は言った。
「オーギュスト・ラングレー。宰相だ」
その名を、わたしは知っている。
八年、婚約者の家の名だった。ユリウスの伯父にあたる。何度も同じ広間にいた。挨拶をされたことは、一度もない。
白髪。ゆっくり喋る。粒を揃える。
顔と名前が、いま繋がった。
三人で、卓を囲んだ。
紙を並べ、控帳を出し、日付を突き合わせた。
テオドールが線を引き、ヴァイスが名を書き、わたしが年を数えた。
二刻ほどで、輪郭ができた。
王暦四〇七年の春、オーギュストは三人の男に「三人いれば真実になる」と言い、「日付はこちらで合わせる」と言い、「東の家」と言った。
同じ年の初夏、ライナルト・カルネイドは三人の証人の宣誓によって処断された。
五年後の冬、その年の控帳の頁が抜かれ、それを見つけた書記官が死んだ。
できて、そこで止まった。
テオドールが、最初に言葉にした。
「奥様の御覧になったものは、証拠になりませぬ」
彼はゆっくり言った。
「証人資格をお持ちでないゆえ、法の上では、奥様は何も御覧になっておられませぬ」
わたしは、知っている。
「五年前の控帳は、頁が抜かれております。宿の控えは王都にございますが、五年経っておりまして、残っておるかどうか」
テオドールは、そこで一度切った。
「そして、三人の証人は、生きております」
声が、勝つ。
この国では、四百年前から、そうなっている。
窓の外は、白いままだった。
材料は、揃った。
使う方法だけが、ない。




