第23話 あたくしには、資格がございます
ノエルが、正面に回って言った。
「よろしいですか」
一拍。
「あたくしには、証人の資格がございます」
冬至が近い。日が短く、午後の三刻には灯りが要る。
卓の上には蝋燭が三本立っていた。
わたしは、炭筆を置いた。
『平民に、資格はありません』
書いて、渡した。
ノエルは首を横に振った。
「ございます。限られたものでございますが」
彼女は前掛けの端を握った。言いにくいことを言うときの癖だ。
「二十を過ぎた者であれば、平民でも証人には立てます。婚姻や、相続や、売り渡しの場に。あたくしは、妹の婚礼で立ちました」
わたしは書いた。
『貴族の宣誓には』
「立てます。ただ」
ノエルの唇が、少し遅くなった。
「貴族三人と平民一人では、勝負になりませぬ」
彼女は自分でそう言って、目を伏せなかった。
言いにくいことを、言いにくいまま言う人だ。柔らかく言い換えたり、こちらの顔色で止めたりしない。
十五年、それに助けられてきた。
テオドールが、その日の夕方に来た。
彼は帳面を三冊持ってきて、卓の上に並べた。
王都の法の写しだという。この領地にも一揃い置いてあるらしい。
「ノエル殿の申されるとおりでございます」
彼は頁を開いて、こちらへ向けた。指で示した箇所を、わたしは読んだ。
証人資格について。成年に達した者。心身に欠くところなき者。
心身に欠くところなき者。
わたしは、その七文字を二度読んだ。
この一行が、十八年、わたしをどこにも立たせなかった。
欠くところ。
書いた者は、聞こえないことを欠けていると思った。それを書いたのは四百年前の誰かで、その人はもう死んでいる。
死んだ人の書いた一行が、いまだにわたしの上に載っている。
「重みが違うのでございます」
テオドールは続けた。
「同じ一人でも、公爵の一人と、平民の一人では、法の上での重みが違います。三人と一人であれば、なおのこと」
『何人いれば足りますか』
わたしはそう書いた。
テオドールは老眼で紙を離し、それから答えた。
「一人では足りませぬ。もう一人、爵位のある方が要ります」
彼は指を二本立てた。
「平民一名と、貴族一名。それでようやく、三名の宣誓に疑いを差し挟めます。覆せるかどうかは、また別でございますが」
貴族が一人。
この件で、貴族が一人。
王都に、心当たりは一人しかいなかった。
十六の娘だ。
母の言うことを疑ったことがなく、姉を憐れむことで自分を保っていて、嘘をつく前に右上を見る。
その娘が、ユリウス・ラングレーの婚約者になった。
卓の上の帳面を閉じながら、テオドールが言った。
「それと、もう一つ」
彼は指の腹を、帳面の背に添わせた。
「五年前の春の分は、抜かれております。ですが」
彼はそこで一度止まった。
「四〇七年の分は、春だけではございませぬ」
わたしは炭筆を握り直した。
「夏の分が、こちらに残っております」
テオドールは、それだけ言って、両手で帳面を閉じた。
それ以上は言わなかった。
夏の分に何が書いてあるのか、この人はもう調べたのだろう。
調べて、今は言わない。言わないほうがいい段階だと判断したのだ。ミハイルは、言おうとして死んだ。
その夜、小神殿から使いが来た。
辺境の声詠みからの書付だった。
『奥様
春になりましたら、洗礼名の儀を執り行いたく存じます。
この土地の神は、いくつもございます。名を授けるのは、王都の作法とは異なります。
ご検討くださいませ』
わたしは、その紙を長いこと見ていた。
王都では、十八年、名を授けられなかった。
神は声を聞く。声を届けられぬ者は、神に届かぬ者だ。
名があれば、変わるのだろうか。
心身に欠くところなき者。
この一行の外に置かれたまま、十八年生きてきた。
洗礼名を得れば、その一行の内側に入れるのだろうか。
入れたとして、それは。
聞こえない者は神に届かぬ、という教えを、こちらから認めることになる。
名を貰うというのは、そういうことだ。届かなかった者が、恵みによって届けてもらう。
わたしは書付を伏せた。
伏せてから、自分の指を見た。
まだ黒い。炭が落ちない。
ノエルが湯を持ってきた。
彼女は卓を回り込んで、正面に立った。
わたしは書いた。
『危ないことです』
ノエルは紙を読んだ。
『ミハイルは、報告する前に死にました』
二枚目を渡した。
ノエルは、それも読んだ。
読んで、顔を上げた。
「存じております」
彼女の唇は、いつもよりゆっくりだった。
「あたくしは十五年、お嬢様の代わりに口を開いてまいりました」
お嬢様、と言った。
直さなかった。
「お茶が要る。寒い。痛い。やめてほしい。全部、あたくしの口から出て行きました」
彼女は前掛けの端を握っている。
「一度も、勝手には申し上げませんでした。必ずお伺いを立ててからにしてまいりました」
わたしは、その先を知っていた。
半年前、王都の自室で、同じ形の言葉を聞いた。
「今度だけは、勝手に申し上げます」
二度目だった。
一度目は、王都の自室で、暖炉の灰を背にして言った。
あのとき、わたしは掌を下に向けようとして、途中で止めた。止めた手が、行き場をなくして卓に落ちた。
今日は、その手をどうすればいいのか、まだ分からない。
わたしは首を横に振った。
ノエルは動かなかった。
わたしは炭筆を取って、書いた。
『わたしが決めることではありません』
書いてから、その紙を見た。
違う。
そうではない。
わたしはその紙を裏返して、書き直した。
『わたしは、まだ決めていません』
渡した。
ノエルは、それを読んだ。
読んで、何も言わずに湯を置いて、部屋を出て行った。
一人になってから、卓の紙を見た。
四十枚以上ある。
十三の年の茶会。ミハイルの紙。柱の陰の断片。厨房の男。侍女の一人。継母の借財。
これを使うということは。
わたしは、十八年、読んだものを一度も使わなかった。
継母が父に嘘をつくのを読んだ。言わなかった。
妹が侍女に罪を着せるのを読んだ。言わなかった。
誰が誰を憎んでいるかを、この国の誰よりも知っている。一度も、使わなかった。
使えば、読めることが知られる。知られれば、二度と読めなくなる。
それは、そうだ。
けれど、それだけではなかった。
読むというのは、盗み見ることだ。
誰も、わたしに見せるつもりで口を動かしてはいない。
盗んだものを、自分のために使う。
それをした日から、わたしは、わたしの前で平気で本音を口にする人たちと、同じものになる。
十八年、その一線だけを守ってきた。
守ってきたから、人でいられた。
誰も見ていないところで、わたしはずっと、それだけを持っていた。
人形姫と呼ばれても、扉の外に立たされても、それだけは減らなかった。
窓の外で、雪が止んでいた。
止むと、冷えが強くなる。硝子に触れると、指が張りつきそうになった。
読んだことを、使う。
それは、十八年守ってきた一線を、自分で踏み越えるということだった。
わたしは、まだ決められない。




