第24話 記録でございます
冬至の日、テオドールが控帳を開いて、こう書いた。
『王暦四一二年、十二の月二十二日。セレーヌ・カルネイド、十九歳』
わたしは、その一行を見ていた。
書記官房は、朝から暖炉が焚かれていた。
紙を凍らせないためだという。この土地では、冬に紙が割れることがあるらしい。
テオドールは羽根ペンを置いて、こちらへ体を向けた。
「控えておきましょう」
彼はそう言って、少し考えてから、言い足した。
「こちらは、祝いではございませぬ。記録でございます」
わたしは、その言葉を読んだ。
記録。
この土地では、書いたものが主だ。
書いておらぬことは、ございませんでした。書いてあるものは、ございました。
十九年生きてきて、わたしの生まれた日が公の帳面に載ったのは、これが初めてだった。
王都の教会には、洗礼の名簿がある。名を授けられた者が載る。
わたしは載っていない。
ヴィオレ家の家系図には、名前だけがある。生年は書かれているが、それは家の記録だ。誰かが読み返すことはない。
この帳面は、読み返される。
この土地の者が、麻の値を確かめるのと同じ手つきで、この頁をめくることがある。
そのとき、この一行がある。
誰も読まないかもしれない。
それでも、書いてある。書いてあるものは、ございました。
わたしは指を伸ばして、その一行に触れた。
インクが、まだ湿っている。指の腹に、かすかに移った。
テオドールは何も言わなかった。
彼は羽根ペンを拭いて、脇に置き、帳面を開いたままにしておいた。乾くまで閉じない。いつもそうしている。
この人が「祝いではございませぬ」と言ったのは、たぶん、わざとだ。
祝いなら、受け取るかどうかをこちらが選ばねばならない。記録なら、選ばなくていい。ただ、そこにある。
ノエルが、菓子を焼いた。
この土地の粉と、イーサから買った香辛料を使ったらしい。
厚みがなく、端が焦げていて、形がいびつだった。ノエルは料理番ではない。
わたしはそれを食べた。
辛かった。
甘いものを作ろうとして、匙を取り違えたのだろう。四つ目の袋のものが入っている。
喉の奥が焼けた。目の縁に水が滲んだ。
ノエルが慌てて水を持ってきて、そのあいだも、こちらの顔を見て何か言い続けている。速すぎて読めない。
わたしは水を飲んで、それから、口の端を動かした。
ノエルの動きが止まった。
彼女は前掛けを握って、しばらくそこに立っていた。
それから、自分でも一つ食べて、同じように喉を押さえた。
この人が菓子を焼いたのは、たぶん十五年で初めてだ。
王都の屋敷では、侍女が厨房に入ることはなかった。ここでは誰でも入れる。入れると知って、この人は入ったのだろう。
夕方、中庭に出た。
雪が膝まで積もっている。館の者が朝に道をつけるので、中庭を横切る一本だけは歩ける。
この場所は、三月前に見た。
二階の窓から。松明が二本、壁の受けに差してあって、その下に二人が立っていた。
あの夜、この人の唇が「兄は、言っていない」と動いた。
今、その受けには何もない。
松明は冬のあいだ使わないらしい。雪で消えるからだ。
ヴァイスが後から来た。
外套も着ずに出てきていた。この人は寒さに強い。
わたしは紙を出した。手袋を外すと、指がすぐ痛くなる。
『わたしが読んだものを使えば、ご兄上のことを、覆せるかもしれません』
書いて、渡した。
ヴァイスは受け取って、読んだ。
雪の照り返しで、紙がよく見えるだろう。この人の顔もよく見える。ここは中庭でいちばん明るい場所だ。
彼は読み終えて、こちらへ体を向けた。
彼は、こう言った。
「使わなくていい」
わたしは、その七文字を読んだ。
彼は続けた。
「俺は五年、証明したかった。今もしたい」
速くない。一語ずつ。
「だが、あんたを証明の道具にしてまで、兄の名を戻したいわけじゃない」
彼はそこで一度切った。
「あんたが読めることを、王都で言えば、あんたは二度と、誰の前でも安全じゃなくなる」
わたしは、その唇を見ていた。
この人は、五年ぶりに来た手がかりを、自分から手放そうとしている。
五年、王都に通った人だ。爵位を継ぐ前の二年、雪の合間を縫って十二日の道を往復した人だ。
その人が、使わなくていいと言う。
わたしは炭筆を握った。
指がかじかんで、うまく持てない。持ち直して、書いた。
『あなたのためではありません』
渡した。
ヴァイスは読んだ。読んで、顔を上げた。
わたしは二枚目を書いた。
書くのに、少しかかった。雪の上に紙を置いて、膝で押さえながら書いた。
『ミハイルは、明日申し上げますと、わたしに書いて見せました』
渡した。
彼はそれを読んだ。
三枚目を書いた。
『あの子の言葉は、まだ誰にも届いていません』
渡した。
四枚目を書くとき、炭筆の先が折れた。
削り直す道具がない。折れた先を指で整えて、そのまま書いた。字が太くなった。
『わたしは、届かなかった言葉のことを、知っています』
渡した。
彼は、四枚を順に読み返した。
読み返して、こちらを見た。
雪が降り始めていた。細かい。風がないので、まっすぐ落ちてくる。
紙の上に落ちた粒が、炭の字の縁を滲ませていく。
ヴァイスは何も言わなかった。
言わずに、四枚を外套の内側に入れた。
濡れないように。
わたしを止めなかった。
止めないことと、使うと言うことは、違う。この人はまだ、一度も「使う」と言っていない。
部屋に戻って、火のそばに座った。
手が痛い。かじかんだ手が温まるときの、あの痛みだ。
決めてしまった。
十八年守ってきたものを、自分で外した。
読んだものを、使う。
誰かを裁くために、誰かが見せるつもりのなかったものを使う。
わたしは、わたしの前で平気で本音を口にした人たちと、同じものになる。
それでもいい、とは思わない。
思わないまま、決めた。
人は、こういうふうに何かを決めるのかもしれない。納得してからではなく、納得しないまま。
ミハイルは、掌を下に向けて、一度だけ下げた。
覚えた合図を、正しく使ってみせた。あれが最後だった。
あの子は、書いて見せた。書いたものは残る。この土地では、書いたものが主だ。
あの紙は、袖の中で見つかった。読んだのは、役人と、テオドールと、わたしだけだ。
夜、寝台に入る前に、母の手鏡を出した。
柄の銀は黒ずんだままだ。
鏡の中で、自分の唇が動いた。
だから、あんたは、ここで。
あの続きを、わたしはまだ読めていない。
三語か、四語。最後のあたりで、下唇を軽く噛むような動き。
いつか読めるだろうか。
読めなかったものを、追いかけない。
母はそう教えた。追いかけたところで届かない、と。
足の裏に、震えが来た。
床から、低く、長く。
わたしは寝台を降りて、窓に手を当てた。硝子も震えている。
朝、ノエルが伝えに来た。
川の氷が割れたのだという。
六十日が、終わる。




