第25話 同じことを、二度
来たときと、同じ十二日。
同じ街道、同じ宿。
違うのは、荷の中に控帳があることだった。
四〇七年の夏の分。テオドールが自分で抱えて、馬車に乗せた。
膝の上から離さない。宿でも、抱えたまま眠っているらしい。
油紙で二重に包み、その上から麻布を巻いてある。雨に濡らさないためだ。この人は控帳を、赤子のように運ぶ。
雪解けの道は、来たときより悪かった。
土が緩んで、車輪が沈む。一日に進める距離が短い。
三日目には、荷車を一台置いていくことになった。
わたしは窓から外を見ていた。
枝の先に、小さな芽がついている。
この土地の春は遅いと聞いたが、それでも来るらしい。
六十日、白いものしか見ていなかった。緑を見ると、目の奥が少し疲れる。使っていなかった場所を使うからだろう。
東の関で、報せが入った。
関所の役人がヴァイスに何か告げ、ヴァイスが表情を変えないまま聞いていた。
やがて彼は馬車のところへ来て、扉を開け、正面に立った。
「王都で、請願が出ている」
速くない。
「ラングレー侯爵家からだ。カルネイド領の交易権を、王家の直轄に移せと」
わたしは紙を出した。
『理由は』
彼は紙を読んで、答えた。
「辺境伯家は、隣国と通じている疑いがある」
わたしは、その一行を読んだ。
隣国と、通じている。
五年前、彼の兄が処断されたときの理由と、同じだった。
一度で通った手を、そのまま二度使う。
効いたものを変える必要はない。変えないのは、相手を侮っているからだ。侮る根拠もある。一度目は、通ったのだから。
「同じことを、二度やる気だ」
ヴァイスは言った。
「――分かるか」
わたしは指を一本立てた。
彼はそれを見て、扉を閉めようとして、止めた。
止めて、もう一度開けた。
「五年前は、兄が一人で王都にいた」
彼は言った。
「今度は、こっちに味方がいる」
彼はそこで一度、こちらの目を見た。
味方、という言葉をこの人が使うのを、聞いたことがなかった。
それだけ言って、扉を閉めた。
その夜、宿の一室に四人で集まった。
ヴァイス、テオドール、ノエル、わたし。
卓に紙を広げた。
テオドールが、要るものを順に挙げていった。
一つ。平民の証人が一名。ノエルが立つ。
二つ。爵位のある証人が一名。心当たりは一人。
三つ。四〇七年夏の控帳。手元にある。
四つ目のところで、テオドールの指が止まった。
「奥様の御覧になったもの」
彼はそう書いて、その下に線を引いた。線の下に、何も書かなかった。
わたしの証言は、法の上では存在しない。
何を見ていても、証人資格を持たない者は、何も見ていないことになる。
五年前、庭の長椅子で、わたしは四人の男を見た。
あの日あの庭にいた人間のうち、いまも生きていて、あの会話を全部知っているのは、白髪の男と、わたしだけかもしれない。
そのうち一人は、法の上では、その場にいなかったことになっている。
三つは揃う。四つ目が、揃わない。
三つで足りるなら、この五年で誰かが動いていただろう。
足りないから、五年動かなかった。
ノエルが口を開いた。
「奥様が、証人におなりになる手立ては」
テオドールは首を横に振った。
「四百年、動いておりませぬ」
彼はゆっくり言った。
「洗礼名を授かれば、と申す者もございましょう。ですが、名は資格ではございませぬ。神殿の帳面に載るだけでございます」
わたしは、卓の上の紙を見ていた。
やがてテオドールが、こちらへ体を向けた。
彼は少し考えてから、口を開いた。
「奥様」
一語ずつ。
「証言なさる必要は、ないのかもしれませぬ」
わたしは顔を上げた。
テオドールは、それ以上言わなかった。
言わずに、控帳を膝の上に抱え直した。
紙の背に、指の腹を添わせている。
わたしは書いた。
『どういう意味ですか』
テオドールは紙を読んだ。
読んで、こう答えた。
「まだ、申し上げられませぬ」
彼は目を伏せなかった。
「分かったことだけを申し上げます。それが、書記の作法でございますので」
ヴァイスがテオドールを見た。
テオドールは、その視線を受けて、控帳を抱え直しただけだった。
この人が「まだ」と言うときは、本当に「まだ」なのだと思う。
十一日、署名を待った人だ。急がせて出てくるものは、この人の中には入っていない。
王都に着いたのは、十三日目の午後だった。
城門を抜けると、石畳が始まる。
車輪の震えが、急に細かく硬くなった。
この震え方を、体が覚えていた。
十八年、この震えの上を歩いた。半年離れていただけで、懐かしいとも思わない。ただ、知っている。
街は、何も変わっていなかった。
同じ通り、同じ屋根、同じ人の流れ。
わたしが出て行った日と、何ひとつ違わない。
半年で、街は変わらない。
変わったのは、こちらだけだ。
半年前、この街を出るとき、わたしは十八だった。
今は十九になっている。それを知っているのは、東の果ての帳面と、わたしだけだ。
馬車の窓から、通りを歩く人を見た。
誰も、こちらを見ない。
王都の人は、他人を見ない。見ないふりをする。
カルネイドでは、用があれば見た。用がなければ見なかった。
ここでは、用があっても見ない。
人の唇が、いくつも視界を横切っていく。
半年ぶりに、全部が読める。
この街の言葉は、わたしの言葉だ。
読めるのに、届かない。
カルネイドでは、読めないことが多かった。六つの言葉が混じり、訛りがあり、知らない語がいくらでもあった。
それでも、通じた。板に書けば通じた。指を四本立てれば通じた。
ここでは、全部読める。読めて、何も通じない。
ラングレー侯爵邸の前を通った。
門は閉まっていた。
壁の上に、紋がある。盾を二つ重ねて、上に星を一つ。
半年前、あの門をくぐった。
広間で、婚約が終わった。三人の証人がそれを聞いた。継母が代わりに承知した。
その手続きが済んだあと、ユリウスは従僕に向かって、わたしの正面で口を動かした。
あの唇の形を、わたしはまだ持っている。
わたしは一言も発しなかった。
いまも、発せない。
この街で、わたしの言葉は存在しない。
膝の上に、控帳の一冊があった。
テオドールが「奥様がお持ちください」と言って渡したものだ。
四〇七年の夏の分ではない。麻布三十反の、あの控帳だった。
最初の頁に、わたしの署名がある。
字が歪んでいる。二画目が長すぎる。
インクが滲んで、最初の一画の縁が広がっている。
この紙の上でだけ、わたしは存在していた。
膝の上の控帳を、両手で押さえた。
馬車が石畳を踏むたび、震えが腕まで上がってくる。この街の震え方だ。
宿に着いた。
王城に近い、辺境伯家が代々使う宿だという。五年前、ヴァイスの兄もここに泊まった。宿の控帳に名が残っているのは、この宿のものだ。
ヴァイスが馬車の扉を開け、正面に立って、言った。
「明日、ヴィオレ伯爵邸へ行く」
わたしは知っている。
妹に、会いに。




