第26話 お姉さまは、自分で書けるよ
半年ぶりの家は、何ひとつ変わっていなかった。
玄関の敷石の欠けた場所も、階段の三段目の軋みも、廊下の突き当たりに掛かった古い織物も、同じだった。
扉が、開いたままだった。
二階の東の小間。
継母と妹が使う部屋だ。半年前、わたしはあの踊り場から、二人の会話を読んだ。
誰も、閉めていない。
どうせ、聞こえないのだから。
カルネイドの館では、扉は必ず閉まっていた。誰も閉め忘れなかった。
閉め忘れないというのは、扉に意味があると思っているということだ。
リリアの部屋は、二階の奥にあった。
ノエルが先に立って扉を叩き、それから正面に回って、こちらに言った。
「お通りくださいませ」
部屋に入ると、妹が寝台の端に座っていた。
半年で、少し痩せていた。
髪の結い方が変わっている。王都の流行りではない。もっと年上の女がする結い方だ。
婚約者に合わせたのだろう。あの人は、そういうことを口にする。
リリアはわたしを見ると、立ち上がった。
立ち上がって、笑おうとして、途中でやめた。
この娘が、笑いかけるのをやめたのを、初めて見た。
十六年、リリアはわたしを見るとまず笑った。
笑って、手を握って、冷たいと言った。その順番が決まっていた。
「お姉さま」
妹は正面に立った。
立ってから、口を動かした。ゆっくりではない。この娘は昔から速い。それでも、いつもよりは遅かった。
「あの、その、お元気そうで」
言葉を探している。探すとき、リリアは指を組んだり離したりする。
「東は、寒いのでしょう。あたし、あの、雪が」
わたしは紙を出した。
『あなたは、ユリウス様と婚約されたそうですね』
書いて、渡した。
リリアの指が、止まった。
彼女は紙を持ったまま、寝台に座った。
それから、こちらを見ずに口を動かした。
横顔だ。角度が浅いので、読める。
「……先月、言われたの」
わたしは待った。
「あの人、あたしに言ったのよ。君は、ちゃんと返事をしてくれるからね、って」
妹の唇が、そこで止まった。
「あたし、嬉しかったの。最初は」
止まって、続いた。
「三日くらいして、気がついたの。あれ、褒めてないって」
リリアは膝の上の紙を握った。
「返事をしてくれるから。じゃあ、返事をしない人は。お姉さまのことじゃないって、どうして思ったのかしら、あたし」
わたしは、その唇を見ていた。
同じ言葉を、わたしも読んだ。カルネイドの広間で、夕食のあとに。
あのとき、ユリウスの唇は、その一文だけゆっくりだった。心から言うとき、人の口は遅くなる。
妹は、それを耳で聞いた。
三日かかって、意味に届いた。
わたしは、その場で届いた。
届いて、何もしなかった。書きもせず、顔も動かさず、ただ唇の形を覚えた。
どちらが、ましだったのだろう。
リリアが顔を上げた。
目が赤い。泣いていたのだろう。半年前と同じ顔だ。
「お姉さま。あたし」
彼女の唇が、震えている。
「あたし、悪くないよね?」
わたしは、答えなかった。
書きもしなかった。
紙は膝の上にある。炭筆も持っている。
ただ、見ていた。
リリアの目が、右上へ動いた。
動いて、途中で止まった。
止まって、戻ってきた。
この娘が、右上を見るのをやめたのを、初めて見た。
八つの年、割った花瓶を侍女のせいにしたとき、この娘は右上を見た。
侍女は暇を出された。名前は、たしかマリーといった。
ノエルが、部屋の隅から出てきた。
彼女は寝台の脇まで来て、リリアの正面に立った。
「リリア様」
ノエルはこちらへ体を向けなかった。妹に向かって話している。
背中ではない。斜め前だ。読める角度に立っている。わざとだろう。
「あたくしは、十五年、お嬢様の代わりに口を開いてまいりました」
リリアが顔を上げた。
「代わりに口を開くというのは、その方の言葉を預かるということでございます」
ノエルの唇は、いつもよりゆっくりだった。
「預かったものは、お返しするものでございます。ご本人の言いたいとおりに、そのまま」
彼女はそこで一度切った。
「奥様は。マルグリット様は、預かったものを、お使いになりました」
リリアの肩が、動かなくなった。
「五年前でございます」
ノエルは続けた。
「奥様が、王都のさるお屋敷から人が参りまして、応接でお話をなさいました。あたくしは茶を運びました」
わたしは、その唇を見ていた。
「そのあと奥様は、旦那様に、こう仰いました。『あの日は屋敷におりました』と」
ノエルはリリアを見ている。
「あたくしは、その日、奥様が屋敷におられなかったのを存じております」
リリアが立ち上がった。
「……お母様が、証人に」
妹の唇が、そう動いた。
「あたし、覚えてる」
彼女はノエルではなく、わたしのほうを見た。
「七つのとき。お母様が、宣誓の場に行くって、めかしこんで。あたし、どこへ行くのって聞いたら、お仕事よって」
リリアの手が、喉のあたりを掴んだ。
「あの人、あのとき、笑ってた」
リリアの膝が折れた。妹は寝台の端に座り込んだ。
ノエルが手を伸ばしかけて、止めた。この人は、頼まれないうちは触れない。
部屋を出た。
階段を下りて、玄関の広間へ向かう。
半年前、この床の震えで、家の中に何人いるかを数えていた。今も数えられる。三人。継母と、使用人が二人。
継母は、広間にいた。
わたしを見ると、扇を持たない手を胸に当てた。半年前、門で見送ったときと同じ形だった。
「まあ、セレーヌ。お帰りなさい」
彼女の唇が動く。
「お痩せになって。辺境は、やはりお辛かったのでしょう。ご不便も多かったでしょうに」
継母は一歩前に出た。
「ちょうど良うございました。辺境伯様にお願いしたいことがございましてね。この子の代わりに申し上げますと――」
その先が、途切れた。
リリアが、階段を下りてきていた。
妹は最後の三段を飛ばして、広間の床に降りた。裾が乱れるのも構わなかった。この娘が、裾を気にしないのを初めて見た。
降りて、継母の正面に立った。
口を、動かした。
「お母様」
わたしは、その唇を読んだ。
「お姉さまは、自分で書けるよ」
継母の顔が、止まった。
止まったまま、動かなくなった。
この人の顔が動かなくなるのを、十二年で初めて見た。
継母の唇が、二度開いた。
二度とも、何の形にもならなかった。この人は、言い返す言葉を持っている人だ。持っているのに、出てこない。
十二年、この人は「この子の代わりに」で始まる文を、一日も欠かさず使ってきた。
その文が、途中で折れた。
リリアが、こちらへ体を向けた。
彼女は歩いてきて、わたしの正面に立った。
正面に、まっすぐ。
十六年、この娘はわたしの前に立った。手を握るために。冷たいと言うために。
今日は、そのどちらでもなかった。
それから、ゆっくりと口を動かした。
この娘が、ゆっくり喋ったのを、生まれて初めて見た。
「お姉さま」
一語ずつ。
「あたし、証人になれる?」




