第27話 あなたが言ったことを
半年前、この広間でわたしの婚約は終わった。
同じ場所に、同じ人が立っている。
壁の紋も、床の艶も、高窓の位置も、あの日のままだ。
違うのは、わたしが紙を持っていることだった。
半年前、わたしは何も持っていなかった。
持っていたのは、読んだものだけだ。読んだものは、この国では何にもならない。
ラングレー侯爵邸の広間。
ヴァイスが正面に立って、用件を述べた。
カルネイド領の交易権に関する請願を、取り下げること。
ユリウスは、動じなかった。
「辺境伯。それは、私が決めることではありません」
彼は早口だ。半分ほどが落ちる。落ちた半分は、この人の場合、いつも埋まる。
「請願は伯父の名で出ています。私はお使いをしただけで。……ああ、セレーヌ」
彼はそこで、こちらに気づいたという顔をした。
同じ広間に、四半刻前から立っていた。
「君も来ていたのか。こんなところまで、気の毒に」
気の毒に。
半年前も、その言葉から始まった。
この人の中で、わたしはずっと気の毒な娘のままだ。
気の毒でいてくれれば、自分は悪くない。悪くない人間は、謝らなくていい。
わたしは、紙を一枚差し出した。
ユリウスは受け取った。受け取って、こちらを見て、それから紙に目を落とした。
紙には、こう書いてある。
『王暦四一二年 九の月一日 ラングレー侯爵邸 広間
「やっと終わった」
「聞こえないなら、傷つかないだろう?」』
ユリウスの目が、二度往復した。
紙は一枚だ。二行しかない。それを二度読むには、時間がかかりすぎていた。
一度目は、意味を取らずに文字を追った。
二度目で、止まった。
彼の唇が開いた。何も出てこない。
わたしは、二枚目を差し出した。
『王暦四一二年 十一の月 カルネイド辺境伯邸 広間
「妹君と、婚約したよ。リリア嬢だ」
「あの子は、ちゃんと返事をしてくれるからね」』
彼は二枚目を受け取らなかった。
手が上がらない。
わたしは紙を卓に置いた。
「……何を」
ユリウスの唇が動いた。速くない。今日はじめて、この人がゆっくり喋った。
「何だ、これは。誰が」
彼は広間を見回した。
高窓のほうへ首を回し、扉のほうへ戻し、また卓へ。
証人を探しているのだ。誰かが聞いていて、誰かが伝えたのだと思っている。
あの日、この広間には十三人いた。三人は証人で、二人は侯爵夫人と継母、あとは従僕と侍女だ。
誰も、こちらへは伝えていない。
彼は、床を見た。次に、高窓を見た。それから、こちらの顔を見た。
その順に見て、まだ分かっていない顔をしていた。
この人は、わたしがそこに立っていたことを、いまも思い出せない。
「僕は」
ユリウスの唇が、崩れ始めた。
「そんなつもりじゃ、なかった。君を傷つけようなんて、思っていない。誰だってそうだろう、疲れていたんだ、あの日は朝から」
早くなった。
この人は、都合の悪いことを言うとき早くなる。八年見てきた。
「僕は悪くない。婚約は正式に破棄されている。手続きに瑕疵はない。証人だって三人立てた。僕は、僕は何も」
彼はそこで、こちらを見た。
「君だって、何も言わなかったじゃないか」
その一文だけ、はっきり読めた。
言わなかったのではない。
言う場所を、この国が持たせなかった。
それを説明する紙を、わたしは書かなかった。書けば、言い訳になる。
わたしは、三枚目を書いた。
この場で書いた。炭筆を出して、卓の上で。
彼が見ている前で。
書いて、渡した。
『責めておりません。
あなたが言ったことを、書いただけです』
ユリウスは、それを読んだ。
読んで、椅子に手をついた。
彼はわたしを見なかった。ヴァイスも見なかった。
卓の上の二枚を、見ていた。
二枚とも、彼自身の言葉だった。
わたしは一言も、自分の言葉を書いていない。
三枚目にだけ、わたしの文がある。
責めておりません、と書いた。それは本当だ。責めるつもりはなかった。
ただ、置いた。
広間の奥の扉が、開いた。
白髪の男が入ってきた。
背は高くない。痩せていて、背筋が伸びている。
歩き方が静かだ。床を撫でるように歩く。
わたしは、その顔を見た。
五年前、生垣の向こうにいた男だった。
あのとき、白髪はもっと少なかった。背筋は同じだ。
顎の引き方が同じだった。人に話しかける前、この人は必ず顎を一度引く。
彼は卓のそばまで来て、紙を見た。
急がない。歩幅が一定で、途中で速さが変わらなかった。
拾い上げはしない。首を傾けて、上から読んだ。
読み終えて、甥のほうへ体を向けた。
口を、開いた。
「ユリウス」
ゆっくりだった。
速くない。省略しない。一語ずつ、粒を揃えて置いていく。
万人に届くように訓練された喋り方。
五年前と、少しも変わっていない。
「君は、下がりなさい」
ユリウスの顔が上がった。
「伯父上、これは」
「よく聞きなさい」
白髪の男は、そこで一度切った。
「軽率な言葉は、残るのです」
ユリウスは、動かなかった。
動かないまま、両手で顔を覆った。
覆った手の隙間から、口の形が少しだけ見えた。読めなかった。読む必要もなかった。
やがて彼は、広間を出て行った。
伯父は、一度も甥のほうを見なかった。
半年前、この広間で婚約が終わったとき、誰もわたしのほうを見なかった。
見られない側になるのが、どういうことかを、あの人はいま知ったのだろうか。
たぶん、知らない。人は自分の番になっても、たいてい気づかない。
オーギュスト・ラングレーが、こちらへ体を向けた。
この人は、わたしの正面には立たない。
斜め前に立つ。それでも、この人の唇は読める。この人の唇は、誰から見ても読める。
「カルネイド辺境伯」
彼は名乗りもせずに、そう言った。
「請願のことは、王家がお決めになります。わたしにも、あなたにも、決められることではありません」
ヴァイスが何か答えた。背中だから読めない。
オーギュストは、それを聞いて、少し首を傾けた。
「五年前のことを、まだ」
彼はそこで一度切った。
「あの件は、宣誓によって成立しております。三名の証人が、確かに聞きました。書き付けに何が残っていようと、声は覆りません」
彼はそう言って、わたしのほうを見た。
初めて、この人がわたしを見た。
八年、同じ広間にいた。何度も。
一度も、見られたことがなかった。
目が合った。
合ったというより、視線がこちらの上を通っただけだった。花瓶を見るときの目だ。花瓶は見返さない。
オーギュストの唇が、動いた。
「気の毒な娘だ」
ゆっくり。粒を揃えて。
「何も届かないのだから」
わたしは、その唇を読んだ。
一語も、落ちなかった。
この人は、自分の唇が読まれていることを知らない。
五年前も、知らなかった。
万人に届くように喋る。それがこの人の武器だ。
届かせたい相手にだけ届く喋り方など、この人は身につけていない。身につける理由がなかった。




