天使に導かれて
朝になり、重い体を持ち上げ、ようやく私は朝食の準備を始めた。雌鶏が三羽、鶏小屋の前の柵で小さく鳴きながら人間の残り物の乾燥野菜をつついていた。父さんは鶏を一羽、潰したがっていたなと思い出した。久々に肉が食べたいのだそうだ。一羽潰したら二羽になってしまう。鶏が卵を毎日生むとは限らないから、私たちは卵を得られなくて飢えてしまう。そう言ったけれど父さんは「うるさい」と怒鳴るだけだった。どうせ本部からクッキーバーや保存食が送られてくるんだから、いいんだよ、と。
鶏を潰すくらいなら、父さんが死ねばいい。
そう思って、ハッとして首を振った。何てことを考えるのだ。第一、父さんが死んだら私はどうやって生きていくつもりなのだ。でも、何故だか鶏を潰す想像が頭の中で止まらなくなる。逃げる鶏を捕まえて、首をひねって殺して、柔らかいうちに羽をむしり、お腹を開いて温かい内臓を抜く……。てのひらに感触がある。想像の中では血は一切出ない。ただ細部が鮮明に見える。青や赤の内臓……。
「おはよ」
雌鶏を眺めていたら、サフランがそこに立っていた。動揺して彼女の顔をそっと見るが、彼女は怒ってなどいなかった。相変わらずつやつやの瞳で、私を射るように見る。微笑み、私に感動をもたらす。
「昨日はごめんね。いきなり外に出ちゃって」
「あ、ちょっと待ってください。父さんのご飯を……」
サフランに待ってもらい、私は起き抜けの父さんの朝食を簡単に用意した。父さんは私が給仕しないことにひどく立腹したが、構っていられない。サフランが私のために家に来てくれたのだ。
「お待たせしました。サフランさん、どこか別のところに行きませんか?」
ここサンディエゴは豊かな土壌のお陰で、緑化はかなり進んでいる。私たちのオレンジ畑は今、長い収穫期だ。村のみんなが仕事に出る前に、人気のないオレンジ畑で話をしたかった。
サフランはうなずいた。
「いいよ。ちょっと聞きたいことがあってさ」
彼女は昨日の少年を連れていて、彼は当たり前のようについてきた。サフランも追い払ったりしない。話って何だろう。ドキドキする。
少年のつやつやの長い髪は朝日に照らされ、女の私よりもよほどきれいだ。大嫌いだ。男なんて大嫌いだ。
「昨日はごめんね」
オレンジ畑に着くと、大きな石の柵に腰かけた彼女はすぐに謝った。食べごろのオレンジが、大きく実って輝く。柑橘の香りが風に乗って強く香る。
「あたし、見た目について何か言われるの好きじゃないんだ。でも、大人げなかったと思うよ。ダミアは悪口のつもりで言ったんじゃないもんね」
私は大慌てで首を振った。サフランのような人が、私のような取るに足らない人間に謝ったりするのにびっくりしたのだ。
「すいません。私褒めてるつもりだったんです。サフランさんは特別だって言いたかったんです」
「そう。ありがと」
サフランは口元だけで微笑んだ。そして続ける。
「で、聞きたいことっていうのが――」
少年が近づいてきて、私の近くで立ち止まった。
「僕はルー。昨日はありがとう」
少年はぎこちない態度になっていた。目を合わせる様子が何だかおかしい。私について、聞いたのかもしれない。もしかして――。
「君はさ、スュン教の支援施設に行くべきじゃないかな」
少年は言った。体が一気に凍りついたように冷たくなる。
「村人が噂してたんだ。君のお父さんは君を、そう――虐待してるって」
サフランに知られた。それだけが頭の中でこだました。サフランに知られた。サフランに知られた。サフランに――。サフランは、私に憐れみを、同情を向けていた。しゃべるのはルーだけだったけれど、サフランはただただ私を可哀想に思っていた。
「スュン教は悪い人もいるけどいい人もいて、ラスベガスにある施設は女性のための施設なんだ。君が望むなら連れて行こうと思うんだ。チャンスは今しかないよ。サフランはひと月後にはまた来るけど――」
「大丈夫、です」
私の声はひどく強張り、かすれている。それに対してルーが困ったように追い打ちをかけてくる。
「でも、君は性虐待を受けてるんだろ?」
「余計なお世話! 私は父さんに守られてるんだから、父さんから離されたら生きていけるわけないでしょう?」
ルーが黙った。サフランは私を、ある種の強い視線で見た。私は身を引き、
「とにかく、放っておいて! これでいいの!」
と叫んだ。それから立ち上がり、走り出した。
恥ずかしい。サフランに知られた。絶望。苦しい。死にたい。死にたい? 何で私が死ぬの? 死ぬのは父さんじゃない? 私を助けてくれない村の人たちじゃない? 何で私が死ぬの?
走った。オレンジ畑は広々と、平らかに続く。私は家に駆け込んだ。父さんが待っていた。父さんの無精ひげはいつにもまして汚い。
「何やってたんだ! 仕事だ。早く準備をしろ」
父さんいつもの声を聞いて、私はへなへなと力が抜けるのを感じた。
結局私は自分の思い通りにすることなどできないのだ。父さんの言う通り、私は作業のためにエプロンを身に着け、オレンジの収穫に行くことにした。何も食べていないのでひどく空腹だった。
「じゃあ、サフランさん、元気で」
アンジェラがサフランに抱き着く。サフランはぎこちなく微笑み、うなずいて「みんな元気でね」と言う。サフランは私のことも見る。村人の一番後ろに立っている私を。私は目を逸らし、もう一度彼女を見る。彼女はもうこちらを見ていない。
彼女の連れのルーはもうトレーラーに乗っているようだ。どうやらあまり村人に姿を晒したくないらしい。あの格好だから、そうするのだろうか?
サフランのミセス・エヴァンズが立ち上がる。黒い塊がほぐれていって、巨大な蜘蛛の姿になるのはいつだってぎょっとする。サフランには似合わないようで似合っている。美しい彼女と、醜いミセス・エヴァンズは互いを補い合っている。
「それじゃあ」
サフランはトレーラーに乗り込んだ。私はルーと目が合った。ドアが閉まる音は、永遠に思えるほど長くこだました。私は、今日も逃げられなかったのだ。
ずっと逃げたいと思っていた。サフランなら助けてくれると思った。サフランは公平で優しいから。そして実際助けようと思ってくれた。でも、私は自分で断った。どうしてできないのだろうと思う。サフランがもっと強く迫って強制的に私を連れ去ってくれたら、なんて勝手なことを思う。でも、私が弱いのだから無理だ。
ミセス・エヴァンズは走り出した。砂埃を上げて、蜘蛛のお化けはサフランを連れて行く。サフランは行ってしまった。私を置いて。私が拒絶したのだから恨みがましく置いて行かれたと思うのは間違いだ。でも、間違いをやめられない。
父さんが近づいてきた。仕事だ、と言う。私はオレンジ畑へ向かう。そしてこき使われる。村人は見て見ぬふりをする。父さんが私に触りすぎるのを。私はそれに慣れている。
「お前も大きくなったな」
珍しく機嫌のいい父さんが、夕食のときに私を眺めて微笑んだ。どういう考えだろう。性的に利用している自分の娘に、「大きくなったな」なんて言葉を使うのは適切ではない気がする。それは優しくて本当の父親をしている人間の言葉だ。私は黙って父さんと食事を取る。夕食の時間はいつも夕暮れ間近で、小さなカンテラでは乾燥野菜を煮たものもクッキーバーも、デザートのオレンジもろくに見えない。
「すぐに死んだお前の母親の代わりに、ずっと育ててきたのはこの俺だ。おむつを替えたのも俺、ライ麦のおかゆを食べさせたのも俺だ」
それは確かにそうだ。父さんは男手一つで私を育てた。私を大人としてみなすのも随分早かったけど。
「だから」父さんはガリガリとクッキーバーをかじってだらしなく笑った。「お前は俺のもんだ。そうだろ?」
ぞっとした。父さんは、私の顔をうっとりと見つめる。体を眺められるより、撫でまわされるより悪い。父さんは私に恋人の代わりをさせようというのだ。すでにさせているつもりでいるのだ。
「ち、……違うよ。私は父さんのものじゃない」
私は勇気を出して言ってみた。サフランがくれた勇気だ。私を助けようとしてくれた彼女の親切さを胸に、私は初めて父さんに逆らった。
「私は私のものだよ。……父さんはいつも間違ってる」
高揚した。私は自分の言葉を口にできた。誰のものでもない、自分の言葉を。それだけで天にも昇る嬉しさだった。私はできる。私はできる。私は父さんから逃げることができる。
「……何言ってんだ?」
父さんの声は低かった。目はどろっと濁った興奮の色。慌てて家を飛び出そうとした。でも、遅い。腕をぎゅっと掴まれた。拳が顔に当たる。
「ジェミニか!」
私は壁に吹っ飛んだ。顔が、頭が、全身が痛い。鼻血が出ているのに気づいた。灯りが消えた。カンテラが落ちて壊れたらしい。
「お前ジェミニとつき合ってるんだろう。あの野郎。ぶっ殺してやる」
ジェミニは村長代理として親切にしてくれることもあるが、そんな事実はない。違う、と否定したかったが頭がぐらぐら揺れて何も言えなかった。父さんは私の赤毛を掴む。父さんの薄くなった髪と同じ色の髪を。
「つき合ってんのか? ジェミニと? もうやったのか? ええ? 結婚もしてないのによ……」
自分を棚に上げて、父さんは自分勝手なことを言う。腕が伸びてきた。マフラーのように、それは生ぬるく、私の首に緩く巻きついてきた。そしてぎゅっと締めつけてくる。父さんの手が、私の首を絞めていた。
「お前は俺のもんだよな? なあ?」
あまりの苦しさに、そうだよ、と言いそうになった。そうだよ。だから首を絞めないで。殺さないで。何でも言うとおりにするから。
「苦しいか? 言うこと聞くならやめるぞ」
うなずこうとした。今うなずいたらずっと辛いに決まっている。それでもうなずかざるを得なかった。うなずきたくない。でも、私は生きようとしていて、うなずこうとしている。けれど、次の瞬間には父さんの手が緩んでいた。
誰かがいた。その人物は月の光に輝くものを持っていた。父さんが私に倒れかかってきた。父さんの重い体は、生暖かいものを垂らしていた。その人は私をじっと見つめていた。父さんのせいで汚れた私は、父さんの後ろに立っている人物に向かって赤い手を差し出した。
そしてサフランは私の手を、力強く握った。




