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サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート1
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依頼人

 サンタモニカまではミス・エヴァンズの牽引でゆっくりと進んでも一時間程度だ。ミニトレーラーの中から外の風景を覗きながら、サフランはごそごそと自分の荷物を探ると、ページの抜けたラテン語の辞書から一枚、悪びれる様子もなく拝借し、自分用の大麻を巻き込んだ。点火装置で火をつけると辞書のページは焦げる音をさせて熱くなった。吸うと、先端が赤く光る。彼女は問題なく真っ直ぐな道を進むミス・エヴァンズに引っ張られるミニトレーラーの天井の窓を開き、鼻の奥を刺激する冷たい潮の香りを嗅いだ。それから先ほど吸った煙を長く細く吐いた。


 穏やかな晴れの日の太平洋を一望できる海沿いの道は、背の高いワシントンヤシの列につき添われて長く続く。当然ながら海やビーチで遊ぶ人の姿はない。起きている人間がほとんどいないのだから当然だ。街のほうは――街だった場所は、巨大ビルをいくつか生やしたまま、残る場所はいずれ巨木となるジャイアントセコイアが一区画ごとに数本植えられ、周囲に低木や北アメリカ固有の草花などの種が撒かれ、ロボットたちによって管理されている。《冬眠者》たちはビルの中や、地下や、巨大なテーマパークのような施設の中で凍りついて眠っている。


 二十二世紀初め、環境問題の悪化や紛争や戦争の後始末が手に負えないと判断した人類は、緑化装置と残される少数の人類のためのいくつかの贈り物を残し、二百年の冷凍睡眠コールドスリープを選択してしまった。戦争や災害で数は少なくなったものの、約十二億の人類が揃って二百年後にタイムスリップするというわけだ。百年後の今、世界の緑化は進んだ。人類がいなければこうも地球は生き生きとするかと呆れるほど、世界はとても美しい。現にミセス・エヴァンズが時折轢き殺してしまうくらい、ウサギやリスが増えている。このミニトレーラーで遭遇するにはかなり危険なアメリカクロクマだって、どこかにいるだろう。コヨーテだっている。乾いた土地柄ゆえわかりづらいが、大地はかなり健全な状態だ。


 残された人類は、主に冷凍睡眠を拒絶する自然な生き方を重視する宗教団体に所属していた。北アメリカでは彼らは今、当初の二千人から三千人に増えた。集落を広げつつあるスュン教もその一つだ。二十一世紀終わりに始まったこの新宗教は、大地と共に生きる自然な暮らし、よき行いによる天国での待遇の向上などをスローガンにしてほとんどの《残されし者》を取り込んでしまった。


 サフランは彼らと共生しつつも、定住しないことによって浅い関わりに保つことを選んだ。困難の多い彼女の人生が彼女を弱者に対する強すぎるまでの哀れみの持ち主にしてしまったのは明らかだった。次は《災厄》と関わりのある死体か、薬物か、赤ん坊か。次に運ぶものが何であっても、それが誰かのためになるなら、彼女はやり遂げるつもりだった。


 赤ん坊なら運んだことがある。それは危険のない仕事で、死んだ母親からの遺言でその子を父親の元に連れて行くことになったのだった。母を喪って泣いてばかりの生後八ヶ月の赤ん坊を世話するのは大変だったが、それはそれで楽しかった。


 まあいいけど、とサフランは思う。いつだって捨て鉢だった。今回だって自分がどうなってもいいと思っている。困っている人を助けたい。それは彼女の度し難い衝動だ。


 それからしばらくして吸っていたものを海のほうに放り投げると、ミニトレーラーの中に引っ込んで、小さな詩集を読み始めた。




 ビーチ沿いの道を走り向け、いつしかミセス・エヴァンズが速度を緩めだした。カリフォルニア・ビーチ・ホテルにその人物はいると聞かされていたが、それらしいホテルは、解体される寸前のような、元は豪華であったような建物しかなかった。入り口がシンプルに張り出し、左右に広がる建物は奥行を感じさせた。建物の向こう側にある大きな木が気になる。営業している様子はないが、こういう場所には誰かが住み着いていることもある。


 ミセス・エヴァンズを小さくしゃがませ、ミニトレーラーからゆっくりと降りたサフランは、ホテルのほとんど全開になったままの自動ドアをくぐった。埃の匂いが充満していた。ドブネズミの不潔な臭いも。黙って立ち尽くし、それから彼女は青い色だったと思われるロビーの絨毯に足跡をつけて歩き出した。一足ごとに埃が舞うので顔をしかめた。階段ならどこかに行けるだろう、とロビー受付の隣にある幅の広い階段を上り出す。


 視線を感じた。どこかに誰かがいて、彼女を観察しているのは明らかだった。


 時折振り向きながらもそこを上がり切る。顔を向けると別のものに目を奪われた。


 まぶしいくらいの場所だった。光が細かく反射して、彼女の気分を明るませた。目の前にあるのは巨大な植物園だった。円形に囲まれた地面から生えたカタリーナ・アイアンウッドと思われるカリフォルニア固有の巨木、それに絡まるつる植物、巨木を囲むようにもくもくと雲海のように広がる小さな香りのする木々、開花の早いオレンジ色のハナビシソウの群生、小鳥の鳴き声、動物の気配。ガラスのドームがあった場所はとうに突き破られ、鉄の錆びた骨組みだけになっている。ホテルの後ろに木があったのではない。ホテルの内部にある木が、玄関から見えていたのだ。巨大な植木鉢のようなその場所は、彼女に自分がちっぽけな生物だと感じさせた。


 彼女は見とれた。美しいものを、情緒を揺さぶるようなものを見たのはかなり久しぶりだった。五年前の、初々しいローティーンのころを思い出したように、彼女は興奮していた。


 何もかも忘れ、植物園の底を覗き込む。案の定、黒っぽいリスがちょろちょろと木の幹を駆け上がるすばしっこい動きが目に留まった。低木が揺れ、華やかなアオカケスや黄色っぽいキビタイシメなどの小鳥が警戒の声を上げて一斉に飛び立つ。


 気づいたときにはすぐ後ろに人の気配があった。サフランは一瞬で振り向いた。


「ちょっと。撃たないでよ、怖いから」


 サフランが突きつけた拳銃の向こうには、アジア系の姉妹がいた。小さいほうの少女が怯えたように彼女を見るが、もう一人のポニーテールの少女は黙ったまま、平気な様子で立っている。


「もしかして依頼人?」


 サフランが訊くと、小さいほうはうなずいた。


「あなた、サフラン?」

「そうだよ」


 サフランはゆっくりと銃をブルゾンの中のホルダーにしまった。大きいほうでも頭一つ分ほど小柄で華奢な姉妹を、これ以上警戒する必要はなかった。もし不審な動きをしても、これくらいの距離ならすぐに撃ち殺せる。


「ああびっくりした。追手かと。……本当にサフラン?」

「本当だよ。依頼についてはアリーから聞いた」

「ああよかった!」


 サフランはよくしゃべって表情の柔らかい小さいほうの少女よりも、ずっと黙っている大きな少女のほうが気になっていた。初めから値踏みするようにこちらを見ていて、居心地が悪い。


「あの、サフラン。依頼について話をしてもいい?」

「どうぞ。話をして信頼に足ると判断できれば助かる」


 すぐに警戒を解いてしまった少女は、サフランが促すと身振り手振りを加え、自分たちについて話し出した。彼女たちは、サンフランシスコ北部のチャイニーズ・タウンだった街に生まれた。父を加えての三人家族だったが、父は殺されてしまったのでまた別の場所に移動するしかないのだという。何だか、少女の語りは内容に反して淡々としている。彼女たちの人生は難しい局面を迎えているというのに。サフランは少なからず驚いた。


 暴漢に殴られて殺されてしまった父親について、痛そうだった、とだけ言って顔をしかめる様子に、サフランは落ち着かない気分になった。誰もがいずれ死ぬのはわかっているけれど、こうまで平気な顔で死について語る人間は、スュン教の人間にも滅多にいない。スュン教徒は天国を信じている。よい行いをすれば天国の扉を開けると教えられている。だから、少女のように考えるのも不自然ではないのだが。


 サフランは植物園を囲むステンレスの柵に寄りかかり、二人の少女を観察した。小さいほうの少女は肩までの黒い髪にカーキ色のワンピース、間に合わせのスニーカーなど、この時代の少女らしい恰好をしている。対してもう一人の少女は、長すぎるまでの黒髪を高い位置で簡単にまとめ、チュニックに近い短いワンピースにジーンズを合わせている。目は、ずっと鋭い。東南アジアを思わせる彫りの深い丸い目だが、その茶色の目は深く、暗いどこかを見ている。

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