出発
深夜、サフランは起き出して部屋を出た。宿であっても昔のような贅沢な暖房器具はなく、かけるものを山のようにかけてベッドで寝ていたのだが、ベッドを出た瞬間にひどい寒さを感じ、歩けば歩くほど体は冷えていった。冷たい体を抱きながら、サフランはカンテラを手に、音を立てないように歩く。誰一人いない広間に、まばゆいばかりの光を放つものがあった。機械だ。グラハム・ベルと呼ばれ、昔の通信機器の発明者の名前にちなんで作られた同じような機器だ。過疎地の宿や、都市部では街中の何でもない場所にぽつねんとある。これも《冬眠者》から《残されし者》への贈り物の一つ。普段サフランはいつも宿の女たちに頼んで依頼をこれで引き受けている。
こんばんは、アンノウン。
サフランの腰ほどの高さの機械は、少し斜めになったてっぺんから彼女に話しかけた。彼女はグラハム・ベルからアンノウンと呼ばれる。彼女が本名を使わないからだ。毎回新規利用者としてグラハム・ベルを使う。慣れ切った様子で、定型文のように彼女は言う。
「セントルイスのネッド・ホプキンスに伝えて。『あたしは元気』って。名前を言わなくてもわかるから」
承知いたしました。
「ありがと」
彼女は踵を返して部屋に戻ろうとする。しかしグラハム・ベルは追いすがるように後ろから声をかけてきた。
少しお疲れのようです。メンタルの問題がおありなら、スュン教ロスアンゼルス区支部告解室にお繋ぎいたしましょうか?
「いい。やめて」
顔をしかめてグラハム・ベルの無機質な箱を見る。てっぺんの画面には、告解室を意匠化した画像が浮かび上がっている。
薬の調合をいたしましょうか。リラックスできるハーブや漢方薬を元にしたもの、心を落ち着けるための簡単な化学薬品など、お近くの薬局で提供することが可能です。
「いいってば。――あたしは自分でどうにかできる。今までもそうやってきたんだし」
彼女の苛立った返答に、グラハム・ベルは黙り込んだ。
「考え込まないで。そんだけ。ありがと」
ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています、アンノウン。
サフランはため息をつき、踵を返して部屋へと戻り始めた。
掘り返された大地が広がるばかりの、トウモロコシ畑の中央に位置する村の、簡単な入り口の前でサフランは数人の村人に囲まれながら別れの挨拶をした。コッパード、村の男たち、女たちと続き、最後に挨拶したのはアリーだった。
「本当に、大変なことをお願いしてしまって」
「決めたのはあたしだから。あんたが気に病むことじゃないよ」
彼女は黄色いミニトレーラーに荷物を詰め込むと、アリーのためだけにハグをした。アリーの体が強張るのを感じたが、それが彼女に対する憧れによるものだと知っていたので、サフランは笑ってアリーの背中を軽く叩いた。
「サンタモニカの、海岸近くのホテルだね?」
小さなサフランの言葉に、アリーがうなずく。
「わかった。ありがと」
そしてサフランはミニトレーラーの前でうずくまる、大きな黒い塊に声をかけた。
「ミセス・エヴァンズ! 起きて。出発だよ」
うずくまった大きな犬ほどの大きさだった黒い塊は、むくむくと膨らんで馬ほどの大きさになった。何度か彼女を見たことのあるはずの大人たちでもぞっとした表情をするのだから、幼い子供たちは当然のごとく見た瞬間泣き出した。
多足の黒いてらてらとした彼女、蜘蛛に近いが足が多すぎて海胆のようにも見える彼女は、立ち上がって鎖で二か所繋げられたサフランのミニトレーラーをギシギシと鳴らした。
「じゃあ」
サフランは簡単に手を振り、半分呆気に取られた村人の前でミニトレーラーに乗り込むと、ミセス・エヴァンズに牽引されている側の窓に設置されたマイクから、指示を出した。
「ミセス・エヴァンズ、サンタモニカを目指して。できるだけ人目につかないルートでね」
ミセス・エヴァンズが歩き出した。彼女は意外にも規則正しい足遣いをする。前の足が後ろの足に動きをコピーさせていくように、ゆっくりと足の動きを調整する。やがて足は移動することに集中するかのように地面を踏み締め出した。機械の足音はこんな風か、と思わせる音で、ミセス・エヴァンズは勢いよく走り出した。いつしか時速二十五マイルにも及び、トウモロコシ畑を置き去りにしてしまった。




