新しい依頼
村長の家を出ると、ようやく周囲の風景が目に入ってきた。コッパードは、バラの栽培に凝っている。生垣のバラたちは力強く生い茂り、つぼみがつき、もう咲いている花もある。白いバラに鼻を突っ込んで中心の香りを嗅いでいると、村の小道で待っていたらしいアリーがはにかみながら顔を出した。今夜泊まる宿の娘だ。
「久しぶりだね、アリー」
サフランがバラから鼻を出して微笑むと、アリーはもじもじしながらチョコレート色の頬を丸くさせて笑った。
「お母さんは?」
「準備をしてます。サフランさんが来たから」
アリーは控えめな、ささやくような声を出す。村はずれの粗末な宿は、サフランのなじみだ。アリーと共に歩いて行くと、彼女が来ていることを知った女主人が、彼女が来るより早く部屋を準備してくれていた。アリーに案内されて部屋に入り、あちこちを点検すると、浴室のたらいの中の透明な湯が、湯気を揺らめかせていた。薪もガスも水も確保が難しいここでは湯を作るのも大変だろうに、村の女性たちは彼女にとてもよくしてくれる。
厚い汚れたブルゾンを脱ぎ、ロングブーツを脱ぎ、ブラックのジーンズを脱ぎ――彼女は無防備な裸になった。裸になるのは一番怖い、と思う。ここが建物の中だから、ようやく自分の日焼けしていない体を目にすることができる。
たらいの湯に手ぬぐいを浸し、体を拭く。熱いくらいの湯は、冷え切った体に心地いい。隅々まで力を入れて拭くと、ずっとあったかゆみが随分収まった。髪を洗う。湯の温かさで頭が一気にかゆくなる。たまらず寝室に戻り、とっておきの石鹸を持ってくると、しっかりと泡立てて洗う。残った湯は黒く汚れていた。取り分けておいた湯で頭を流すと、彼女はすっかり清潔になり、旅人らしくなくなった。
部屋で短い髪を宿の手ぬぐいで乾かしていると、ノックの音があった。「どうぞ」と言うとおずおずとアリーが入ってきた。相変わらずはにかんだような様子に、サフランはわずかな苛立ちを感じる。女たちは皆こうだ。控えめで、大人しくて、優しさと見まがう臆病さを持っている。はにかみは幼さだ。もう十七歳になるアリーは捨てるべきものだ。
「どうしたの」
「あの、サフランさんに伝言があって」
コッパードに渡した大麻のことだろうか。誰かがチクろうと思えばできるのだ。一部の村民しか知らなかったこのことは、時間が経つにつれいつしか周知の事実となろうとしていた。この村との取引をやめようと思い始めていたときだったので、サフランは嫌なタイミングだと思った。
「何」
「サンタモニカには行かれますか」
拍子抜けする。サフランは首を振り、「予定にはない」と答えた。
「そうですか。実はサフランさんに頼みごとをしたい人がサンタモニカにいて、運んでもらいたいものがあると言われたそうなんですが」
何だろう。まあ、話を聞いてみてもいいかもしれない。宿の女たちはサフランへの依頼の受付をしてくれていることが多い。この宿もそうだった。
「運んでもらいたいものって?」
サフランが訊くと、アリーは困ったように首を振った。
「私は知りません。何か、大きいものの話をしていましたけど」
死体だったら危険が大きいし、彼女のミニトレーラーでは無理かもしれない。
「悪いけど――」
「助けてほしいそうなんです。依頼人はサンフランシスコの北部出身です」
アリーは懇願するように彼女を見た。サフランは虚を突かれた気分だった。彼女たちには優しさと見まがう臆病さがあるが、時折本当の優しさを見せる。
サンフランシスコ北部。あの《災厄》。サフランは幼いころの記憶を鮮明に思い起こした。子供のような何かの笑い声。そのあと起こったのは明確な殺戮だ。正体のわからない何者かではなく、スュン教徒による。見捨てられた人々があちらこちらに散らばり、彼らはほとんどスュン教徒を始めとする《残されし者》に殺されていた。彼らは《災厄》のあと、完全なる異端として扱われていたのだ。
死体より危険じゃないか、とサフランは思う。でも、止まらなくなりそうだ。彼らを助けたい自分が。
明日には村を出て、サンフランシスコに向かう。早く依頼人と会ったほうがいい。彼らは今にも殺されてしまうような存在だ。せめて、依頼を聞くだけでも。頭の中で分刻みの計画が渦巻く。
「受けてくださいますか? サフランさん」
「いいよ。受ける。乗りかかった舟ってやつ」
サフランはアリーににやっと笑いかけた。




