サフランの記憶
子供がたくさん降って来る……。黒い子供がたくさん……。
影のような、平たく見えるほど黒い子供が雲一つない青い空から降って来た。そのあと、子供たちの不快な笑い声がアパートメントの空気を満たした。千人の子供が笑ってもこうはならないだろうと思われる声でそれは笑った。ママ、と言っているようにも、嬉しい、と叫んでいるようにも、死ね、とも、お前らは終わりだ、と言っているようにも聞こえる声たち。人類の全ての言葉や単語が混然一体になったような笑い交じりの嬌声たち。人々は逃げ惑う。降って来る子供たちに捕まらないように。茫然と外を見守っていた女は、恐慌をきたしながら部屋の隅にうずくまる。そして、目線を上げる。アパートメントの窓をガタガタと開け、黒い子供が笑って彼女によちよちと近づいてくる。機械的な甲高い声で、大好き、と言う。彼女はけたたましく叫ぶ。来た! 来た! と。
少女はそれを眼前に広がる光景のように聞いた。
少女のいる広場には、青空が広がっている。大勢の大人たちが立方体の通信機器であるグラハム・ベルに群がり、深刻な顔で話をしている。困ったような顔だが、何だか落ち着き払っていてまるで他人事だ。でも、何とかしてくれる。大人たちは、何とかしてくれる。
先ほどまで、こんな奇妙な事態にはなっていなかった。少し焦った女性が、こちらに通信してきて奇妙さについて話していただけだったのだ。女性は、サンフランシスコの上空から光が降り注いでいる、と言っていた。強烈な強い光が昼日中でもわかる明るさでサンフランシスコ北部の海辺の街々に落ちかかっていたのだと。その後、いきなり通信する向こうの状況が変わり、このようなことになった。女性の声はもうしない。
もう駄目だな。
その人は言った。彼女はその人物を見上げ、先ほどまで彼がリーダーシップを発揮して誰よりも先にグラハム・ベルで話していたのを嘘のように思った。きびきびとした動き、決断力のあるように見える端正な顔のその人は、助ける価値のないものが通信する向こうにあるかのように、もう諦めるしかない、と皆に宣言した。
他の地域でも起こった《災厄》がとうとうこの北アメリカにもやって来たらしい。皆、サンフランシスコ北部から来た客には気をつけるんだ。一度でも接触すれば困るのは自分自身だ。
周りにいた男たちは納得したようにうなずき、この事態について散漫な話し合いを始めた。彼女は先ほどの彼の大仰な刺繡が施された袖を引っ張った。
どうしてなんですか? サンフランシスコの人たちを、助けないんですか?
彼はにっこり微笑んで彼女のためにしゃがんだ。目線が合うと、彼は彼女の金色の巻き毛を軽く撫でた。
助けられるものと、助けられないものがある。私たちにはすべての人間を救うためのリソースがない。
でも、あなたがよく言う博愛は、優しさは、他者への思いやりは。そう思ったけれど、幼い彼女は言葉にすることができなかった。彼はざわめく男たちに向かって手を何度か叩き、さあさあ、みんな、と澄んだ声を上げた。
仕事があるだろう。早く工場に戻りなさい。
男たちは素直に動き出した。ぞろぞろと歩く羊の群れ。その向こうにいた女たちも、別の流れに合流を始めた。この広場は工場の近くで、彼女の家の近くでもあった。
でも。
彼はささやくような彼女の声を聞き咎め、君にも仕事があるだろう、勉強という仕事がね、と彼女の背をぐっと押して歩かせた。
お母さんの元に戻るんだ。
彼は感じのいい笑いを浮かべた。でも、彼女は見捨てられたサンフランシスコの人々、女性の悲痛な訴え、《災厄》による強烈な子供に似た声を思い出し、彼の作り笑いを初めて恐ろしく思った。
彼女は走り出した。彼の手の届かないところまで逃げようと、やがて全速力で。広場に面したガラス張りのビルとしか表現のしようのない、彼女の所属する教会に向かって走り着くと、彼女は祈った。あの人たちを見捨てないでと。扉の開かない教会に対して一心に、彼女は指を組んだ。ガラスに彼女が映り込んだ。八歳にしては大人びた容貌の彼女は、バイオレットブルーの瞳に映る自分を見ていた。永遠に続く自分の鏡像。どの彼女も、柔らかで優しい目をしている。――不幸な人たちを見捨てないで。お願い。
それが、いつもサフランの自己像として彼女の中に浮かび上がるものだ。
***
サフランはぴったりとしたジーンズを穿いた長い足を折り曲げ、黄色いミニトレーラーの出入り口からのっそりと外に出て来た。そこはロスアンゼルス近くの小さな村の入口で、スュン教の教区の一つだった。春には甘い香りをさせるモクセイソウを中心とする植栽が目に付く。村々にはそれぞれ特徴があり、この村は他の村よりも観賞用の植物が端正に植えられている。
大体この辺りは昔なら大都会だったわけだが、今では多くの建物が解体され、緑地や農地にされ、農地では乾いた大地に合った、ブドウやイチゴ、トウモロコシなどが栽培されている。シーズンの終わったどこまでも続くトウモロコシ畑の中心にある村は、素材こそ古い建物を解体したときに出た再生木材や特殊材質の壁材などを使用してあるが、掘っ立て小屋としか言いようのない村の家々は、スュン教の教区らしいよくある姿だった。
「サフランじゃないか」
と畑を耕すための小さな耕運機を運んできた村人が、機械を置いて近づいてきた。サフランは真顔のまま、「どうも」と首を傾げた。男は少し上目遣いになって卑屈に笑った。
「いつもご苦労なことで」
「まあね」
サフランはかすかに笑った。
「アリーは待ちかねてるよ。母親のエミリーもね」
「そりゃ嬉しい」
「俺もあんたが来るのを……」
サフランは手を雑に振りながら歩き出した。最後まで言わせる気はない。彼女は冷たく乾いた風の吹く村の道を奥に進み、コッパードの家に向かう。さすがにコッパードは司祭に任命された村長なだけあって、元々からここにあるらしい古いきちんとした家に住んでいる。ペンキでブルーグレーに塗られた木造の大きな家は、入り口の前にバルコニーがあるスタイルのそれだった。三メートル近くあるカリフォルニアライラックが脇に生えていて、よく手入れされている。真鍮のシンプルなノッカーでドアを叩き、こんにちは、サフランです、と簡単に挨拶をする。
しばらくしてドアが開き、コッパード夫人が陰気に顔を覗かせた。主人は中で待っております、と言うと、彼女はサフランの不遜にも見える表情の顔をおずおずと見上げ、それから床を視線で掃除するかのようにのろのろと中にサフランを招いた。
「サフラン、久しぶりだね」
村長は六十代くらいの精力的な男だったが、全くの白髪で、額からてっぺんまではそれすらも生えていなかった。笑顔で彼女に近づきハグをしようとするので、彼女は、
「ハグは嫌いなんです」
と手を広げたコッパードに拒絶を意味するてのひらを見せる仕草をした。コッパードは広げた手を気まずそうに下ろすと、
「そうだったね。君はハグが嫌いだったし、挨拶のキスなんてもってのほかだった」
と笑う。サフランは彼を見下ろし、
「それより持ってきたものを受け取ってください。早く済ませたいんで」
と無表情に言う。彼女が持ってきてテーブルに置く小包を、コッパードは満足げに見る。
「開いてもいいかい?」
「もちろん」
ナイフで麻紐が切られた。ぼろのようなビニールの小包の中にあるいくつもの紙包みの一つから現れたのは、確かに茶色く乾燥した大麻だ。彼女は月に一度、決まった量の大麻をこの村に運んでくる。先ほどの男が待ちかねていたのはまさにこれだ。コッパードは思わず、とばかりに鼻で空気を吸い込んだ。
「確かに。これを運んでいてよく酔わないね」
サフランは少し笑った。
「いちいち酔ってたらここまで来られませんよ。トレーラーの中でずっとこの小包と一緒なんですから」
「ありがとう。いい取引をした」
コッパードは代わりにサフランが持ってきた小包の三倍ほどの大きさの包みを彼女に渡す。サフランもその場でそれを広げる。ヴァン紙幣の束と、クッキーバーの包みがぎっしり入った箱だ。ヴァン紙幣ではないほうがよかったけれど、とサフランは思うが、贅沢は言っていられない。旧通貨のほうがいい理由を説明できないからだ。
「どうも。確かに」
「ありがとう。またよろしく」
サフランはくすっと笑う。コッパードはきょとんと彼女を見る。
「何か忘れてないですか?」
「……何だったかな」
「手紙です。村民宛の。あたしの表向きの仕事、忘れましたか?」




