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サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート4
39/40

安心

 その瞬間、彼女の身体の変化は終わった。ナノマシンは、彼女の体の傷、脳の傷を修復し終えた。全ては安全であるとその事実は彼女に知らせた。トラウマは記憶に残る。憎しみも残る。けれどもう、安全であると。


 彼女はそれを「心が洗われた」ように感じた。人工的な気分であっても、それは彼女を変える大きな出来事だった。全てと繋がれるという安心感、全てと繋がってきたという帰属感、トラウマからの離脱による安定感は、彼女を死神から解放しつつあった。


 まるで人工的な幸福だ、と彼女は思う。でも、彼女は死を希求する気持ちが薄らいでいくことで、何よりもホッと息をつけた。




「大丈夫? サフラン」


 隣にルーが立っていた。サフランに体はなかった。ルーにもない。ここは先ほど入ったはずの宮殿の入口だった。さっきまであった中に吸い込まれるような奇妙な感覚はなくなっていた。


「どう? 気分は」


 そう問われ、彼女は天井に見える元の空間を目指した。上下が反転する。着地すると、サフランもルーも姿を持っていた。十五、六歳のルーと、十四歳くらいのサフランに。


 気づけばサフランはルーの手を握っていた。ここは先ほどの世界ではない。でも、そうすることが自然に思えた。サフランはルーの手を握り続けた。


 サフランは、唇を湿すように巻き込んだ。


「……案外今の自分は変わらない。相変わらず、全てが憎くて、悔しくて、情けない。でも、あたしは、――変わった。すごく、変わった。あんたが言う、全ての人を赦す、赦したいという考えがわかる気がした。全てがわかった。あたしはあたしだけで生きる必要がなくなったんだ」


 彼女は遠くを見つめていた。本当に、そんな気がしていた。孤独ではない。そう思った。ずっと感じていた孤独が、一瞬にして消え去ったのだ。


「僕のときは、記憶にもない母親が出て来たよ。母親に対する思いって、普段意識しなくても強いものだと気づいた。母は石を持っていないからもう僕の想像の世界でしか会えないんだけどね」

「あたしも、最近になって母親を恋しいと思っていることに気づいた。あの人、あたしにちゃんと感情を抱いてたらしい」

「そう。よかったね」


 ルーはサフランを見上げて笑いかける。そして、続ける。


「石を持つ者は皆、何かを変えられている。夢は僕らを変えるし、全てを知ることによって僕ら自身が変わるし、きっとそれは素晴らしいことなんだ。僕はそれを希望と呼ぶよ。長い年月をかけて、緩やかに、海の中で丸くなっていくガラス片のような魂を、僕は信じる」


 サフランは誰かが近づいてきていることに気づいた。さっき会った《彼ら》の一人でもない。穏やかな表情を浮かべた人。あれは、母だ。サフランの体にさっと緊張が走る。しかし、母はゆっくりと歩いてきて、話したい素振りを見せていた。




 起きろ、と乱暴に起こされ、目を開けるとぼやけた視界の中にダニエルが立っていた。苛立った顔をしている。あれから三日が経っていた。


「父の葬儀が終わった。盛大な式だったよ。信者たちは皆君を憎んでいる」

「そう」

「それから父と接することの多かった幹部と、女たちを調べた。実に十三人もの感染者がいたよ。下手人とも呼ぶべき女はもういなかった。逃げたようだ。何も知らなかった感染者は、皆怯えて隠していたらしい」


 下手人とされる女は、きっとルーの仲間たちの差し金だ。大胆な作戦に舌を巻く。こうしてスュン教幹部にうつせば、きっと彼らはより安全になっていく。


「で、あんたは?」サフランはにやりと笑った。「あんたには石はできてたの?」


 次の瞬間にはダニエルは彼女を思い切り蹴った。壁に叩きつけられたサフランは、少量の吐瀉物を口の中に感じて床に吐いて捨てた。この三日、ろくなものを食べていない。今の痛みは弱った体に効いた。


「私にはそんなものはない」ダニエルは開いたドアを何度も殴って訴えるように言う。「私にそんなものができるはずがないだろう」


 サフランは肩で息をしながらにやりと笑った。ダニエルはそれにすら苛立った。


「で? その幹部や女たちはどうするの? 殺すの? 今までと同じように」


 彼は唇を噛み締める。


「そんなわけにはいかない。彼らは重要な幹部で、信者からの信頼も篤い。切り捨てたら何が起こるかわからない。女たちも、一気に殺せば問題が起きる」

「八方塞がりだね」


 サフランはとうとう会心の笑みを浮かべた。ダニエルはとんとんと足を鳴らし、落ち着きを取り戻そうとするかのようにうなずいた。


「君に訊きたいんだが、あの石があると何が起こるんだ? 災いが起きるだとか、呪われるとか、そういうことは本当か?」


 サフランはくつくつと笑う。全く、神なんて信じてもいないくせに迷信深くて馬鹿らしい。サフランの反応を見て、彼は不安そうに彼女を見つめる。


「石があるとね」サフランは笑う。「幸せになれる。本当だよ」


 それから彼女は爆笑した。ダニエルはしばらく白い顔で呆然としていたが、突然真っ赤になって彼女を蹴った。何度も、何度も蹴った。胴体を蹴られ、肋骨が折れたような感触がある。頭も蹴られる。彼女の顔には靴の跡が残り、唇は切れた。口の中を切った彼女は、今度は血を吐かなければならなかった。


「靴越しに蹴れば問題ないだろう。とにかくお前はもうおしまいだ。裁判が済んだ。明日は処刑日だ、父を殺した犯人の」


 ダニエルはいかにも汚いものに触れたかのように靴を床にこすりつけ、手を白いハンカチで拭く。彼は部下を連れて歩き出した。サフランの部屋のドアが閉められ、この懲罰室の入口のドアも乱暴に閉められた。


「問題ない? どうだかね」


 サフランはけらけら笑った。処刑日か。どうせ死ぬつもりで来た。死んだっていいだろう。死んだって、ルーに会える。ルーたちが計画を進めて行けば、ひょっとしたらトンボ婆やネッドたちにも夢の中で会えるかもしれない。


 死神からは逃れられなかった。結論はそれでいいだろう。


 彼女の名を呼ぶルーの声を思い出す。優しく少し困ったような、少年の声。ルーは彼女を安心させてくれた。本ばかり読み、本をむやみに大切にし、将来はあの森の中の図書館にでも引っ込んでしまいそうな彼。サフランの生活態度についてやたらと心配し、口出しをしてくる彼。彼女が守らなければならない彼。それなのに彼女はいつの間にか助けられている。彼の存在に。


 母と話すときは夢の中でも心のこわばりを感じた。サフランはルーの手を握って話す。順序よく話していく母の言葉に、彼女は感情が崩れていくのを感じる。すると、隣でルーが言うのだ。大丈夫だよ、サフラン、と。


 彼女はルーが存在するだけで「大丈夫だ」と言われている気がする。


 生存本能が自分の意志を邪魔するのを、サフランは苛立たしく思う。焦ったような気分で、ずっと眠れない。夢が見られない。ルーにも会えない。


 じたばたせずに死ね。自分に命令する。でも、体は逃げようと焦り続ける。夢を見させて。お願い、夢を見させて。

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