記憶の奔流
そうささやいた彼とサフランはいつの間にか空の上にいて、彼は音も立てずに裸の足で走り出した。そして彼女を人々の群れから連れ出す。彼女の記憶の中でより強いイメージの人々が、より印象深い姿でたくさん彼女についてくる。ルーはどんどんスピードを上げていく。彼の髪が舞い、記憶が振り落とされていく。トンボ婆との優しい思い出は早々についてこられなくなる。ネッドとの優しさを交わした日々も。残ったのは、辛い記憶、人を殺した記憶、それも彼女がより傷ついた記憶だけだ。ルーはサフランを引っ張ってジャングルの葉の上を駆け抜ける。水たまりに柔らかな水紋を作りながら走り、海の中で水圧を感じることなく進み、小鳥のように小さくなって木のうろの中を延々と走り、砂煙を上げずに砂漠を走り、時間を駆け戻り、彼女の人生史が彼女の周りで生じては去っていく。サフランは自らのトラウマを一つ一つ見る。父親がサンフランシスコの人たちを見捨てた。母に手を振りほどかれた。父にレイプされた。愛する人と本当の意味で愛し合えないとわかった。初めて人を殺した。助けられる人を助けられなかった。彼女は大声を上げて泣きながら走った。目の前を行くルーは真っ直ぐに前を向いて振り向かない。彼女の後ろには、殺した時の父と、彼女を襲ったときの父と、冷たい表情の母だけが、振り落とされずについてきていた。走っても、走っても、二人の父と一人の母は離れなかった。
あなたは彼に助けられているのね。そして彼らに苦しめられている。
女が再び現れた。サフランは泣きじゃくりながらルーの手にすがってしゃがみ込んだ。ルーは彼女を抱き締める。
彼らに触れるのは怖いわよね。
ルーにすがりながら、サフランはうなずく。
彼となら、触れられそう?
ルーの優しい表情を見つめ、じっと考えてもう一度うなずく。
そっと、触れてみて。
「サフラン、怖くないよ。僕がついてる」
ルーは彼女の手を握った。そしてゆっくりと冷たい顔をした母の手に触れさせた。その瞬間、引きずり込まれる恐怖を感じた。次第に震えが止まらなくなり、やがてぱっと母から手を離した。母の生前の人生が、一気に流れ込んでいた。高慢だった少女時代。美しさが自慢だった。でもヴァン聖人に目をつけられて、人生が変わってしまった。ヴァン聖人は性依存症で、大勢の美しい女たちが彼の人生を彩っていることを知った。神を信じられなくなった。自分の人生もどうでもよくなった。望みもしない、愛人として扱われる自分。子供が生まれても愛せるわけがない。でも、娘が深く傷ついて帰ってきたあの日、彼女は初めてある感情を抱く。
女が父の死体と、彼女を襲ったときの狂気の顔をした父を連れてきて、サフランの前に浮かせた。サフランは青ざめて顔を逸らした。ルーは彼女をなだめて触れさせようとする。何度もそれを繰り返し、やがて狂気の顔をした父が、自ら歩んで彼女に触れた。恐怖が蘇った。しかし、彼女の中には父の恐慌が、幼いときの恐怖が、屈辱が流れてきた。狂気が彼を突き動かしていた。美しいものを侮辱したい。壊したい。愛情を踏みにじりたい。愛情など信じることはできない。自分は可哀想だ。哀れだ。自分を信頼している娘を踏みにじること。人倫に悖ることをすること。それは仕方のないことなのだ。彼の中の彼は、十一歳のまま成長が止まっている。そのアンバランスさが、彼を狂気に駆り立てる。
よろけたサフランは、死体の父に触れてしまった。父の思念がまた流れ込んでくる。今度の誕生日は、自分を犠牲に捧げよう。もう疲れてしまった。人々にいい宗教者だと思われるプレッシャーに。あるべき自分を守る努力に。壊れてしまった女たち。彼女たちは可哀相だった。大勢の彼女たちを犠牲に捧げたけれど、自分の人生は大した変化を見せなかった。最初から自分を殺すべきだったのだ。ダニエルは自分を邪魔に思っている。彼が望むなら、いい機会だ。自分は肉親であり自らの犠牲者である娘に殺されるのがふさわしい。彼女は特別哀れだったし、それもいいだろう。自分は、罪を償って神聖な死を迎えるのだ。
サフランは肩で息をしていた。恐怖で足が震えた。ルーが彼女を抱き締める。
「大変だったね。サフランの辛い記憶は、どうあがいたって普通に生きていて忘れられるものじゃないって思う。大丈夫だよ。大丈夫。僕がついてる」
優しくささやくルーから逃れた。彼女は誰かに抱き締められたい気分ではなかった。彼らに触れることは、辛い記憶をより一層鮮明に思い出すことだったからだ。
女が笑んでいるのか真顔なのかわからないあの表情で、彼女に言う。
彼らを見たわね。彼らなりの辛さ、彼らなりの理由。
「あんなの、理由にならない。あたしをこんなに壊す理由には……。あの男なんて滅茶苦茶じゃないか。あたしを利用して自殺したんだ。とことん壊れてる」
そうね。彼らの理由は自己中心的で、幼稚だわ。でも間違いを犯す地球人の心理はこんなものよ。
「許すなんて、無理だよ。ルーの言っていたことは理想でしかない」
ルーは悲しげな顔をする。女は首を傾げる。
無理かしら? あなたは永遠にトラウマを抱えて生きていくの?
「それしかない。あたしは永遠に彼らを理解したくなんかないから」
でも、あなたは私たちの世界で暮らしていくわ。それはやめられないことなの。
「それでもやめる」
ルーと離れて? 優しい人たちの、いい思い出とも離れて?
サフランは黙った。ルーが彼女を見つめている。一体どうして、楽しい、素晴らしい記憶ばかりが抜け落ちていくのだろう。悪い記憶ばかりが積み重なって主張する。それは彼女が人間だからだろうが、人間であることをやめるのは、到底不可能だ。彼女は人間だから彼女の素晴らしい思い出を持ち続けることができる。いい思い出がなければ、誰かとの優しい記憶がなければ、彼女は存在することなどできない。人間であり続けたい。でも――。
「人間は、汚い。あたしはもう嫌」
あら、そう?
女の問いとともに、突然、重力が加わった。落ちていく。サフランは、落ちるがままに答えた。
「あたしは――どうあっても人間に希望を持てない」
そう。でも、私たちとあなたたちが協力すれば、きっと素敵なことになるわ。私たちのうち一人と、あなたたちのうち一人が少しずつデータを交換する。私たちは多様になり、あなたたちは求めていた平穏な気持ちを得られる。体の不可逆的な変化は、あなたたちに恩恵を与える。それっていいことじゃない? 私たちの技術なら、それは可能よ。
サフランは黙った。彼らがいかに自分たちを求めていようが、自分たちのことは下等な、自分勝手な生き物だとしか思えないのだった。彼女は一緒に落ちていくルーを捕まえ、その手をぎゅっと握った。ルーが握り返し、彼女を見つめた。
「勝手にすればいい。あたしはすぐに殺されるし、すぐにそっちに行くんだろうけど、どうせそこでも生きていくことをやめるし、あたしには大して関係のないこと」
あなたは私たちに協力するわ。
「何を言ってるわけ? あたしにそんな要素ある? 生きていくことが怖くて、情けないあたしに……」
「サフラン、君にいいものをあげる」
隣にいるルーが微笑んだ。そして彼女に、彼の体に――心臓の位置に――、触れさせた。
「僕は彼らからもらったんだ。それはデータ。地球の生物の、長い歴史のデータ。それをもらったとき、僕は本当に――命を持っていることって、すごいことだって思ったんだ。たくさんの黒い子供――地球のデータを丸ごと記録しているナノマシンの塊――を受け取った、あの経験をさせてあげる。君はまるで違う人間のように生き返ることができると思う」
ルーが話し終えると、女と彼は不意に消えた。サフランの視界が突然変わった。ここはもうあの奇妙な世界ではない。現実の、スュン教徒の村だ。目の前にいる、畑を耕し、汗をかいては上を向く男はアジア系だ。パパ、とサフランは言う。視線は男の太ももまでしかなく、懸命に男に走り寄る。隣には少女がいる。少年よりも少し大きく、パパ、みんな騒いでるよ、と言う。「どうした?」とその男は答え、少女と少年の指さす上空を見上げる。黒い粒が、空の全面に散っていた。「何だ?」男は思わずといった様子で子供たちを――サフランでもある少年を――抱き締めた。黒い粒は段々と大きくなり、雨粒のような勢いで落ちてきた。それは赤ん坊だった。平たく見えるほどに黒い、真っ黒な赤ん坊。赤ん坊は、サフランが中に入った少年の顔に向かって落ちてきた。君のことを知ってるよ、と甲高い声で叫びながら。少年は悲鳴を上げた。しかし、黒い塊は視界を塞いだ。
全ての、地球上のあらゆる生き物の息遣いが体の中に伝わってきた。単細胞の藻の、ジャイアントセコイアの、アメリカクロクマの、南アフリカの花であるキングプロテアの、コウテイペンギンの、マッコウクジラの、リュウグウノツカイの、とっくに滅びた生き物であるドードーの、ステラーダイカイギュウの、アルバートサウルスの、地上で初めて生活した脊椎動物の、初めて地上に根を下ろした植物の、巨大な古代のトンボであるメガネウラの、巨大な古代魚メガロドンの、動物たちを苦しめた菌や細菌の、ありとあらゆる生命の活動。そしてありとあらゆる人類の躍動。殺し合い、政治、仲間同士での時間、家族の時間、一族の時間。一族の中の、仲間同士での虐待、人々の他人に対するコンプレックス、優越感、疎外感、全能感、優しさ、残酷さ。
一気に、強い感情や危機感や素晴らしい感情、疎ましい感情が押し寄せてきた。地球上の生物の、全ての感情が、ありようが、美しさが、伝わってきた。
そして少年は、ルーは、「わあ、素晴らしいや」とつぶやいた。




