記憶との対峙
重力の拮抗する中間の位置で、地面が反転する。彼らは新しい地面に吸い寄せられる。体はいつの間にか消えるようになくなっている。この感覚が、一番心地よく感じる。
「僕に教えてよ」
ルーが後ろについてきている。サフランは飛ぶようにそれから逃げていく。
「教えてくれよ」
しつこい。ルーは何度もサフランに触れようとする。でも、移動するために飛行することはサフランのほうが上手いようだ。追いかけっこをするうちに、彼らはいつの間にかある場所の前にいた。うろこの都市で最も大きく荘厳な、宮殿だ。丸く、大きな玉ねぎ型の屋根があり、全てが虹のように青みを帯びて輝いている。入り口には門もドアもなく、誰もが気まぐれに入れるような雰囲気がある。サフランはいつもここが気になっていた。
「君はここに行くべきだ」
ルーは言った。サフランは訊く。
「ここは何? 誰が住んでるの?」
「《彼ら》さ。正確には彼らの宇宙船と繋がっている」
「ふうん」
サフランはつい、と通り過ぎかけた。ルーが慌てて続ける。
「君は不安で、トラウマの塊で、いつも悲しんでて、未来に希望を持てない。でも、彼らに直に会えばわかる。全てが平穏に変わる。僕は君に今死んでほしくなんかない。未来は君の前に開けている。そう思ってほしい。彼らは君にそう思わせくれるよ。だからさ」
「あんたの言う《彼ら》に会って、人生の問題は解決された? あんたは現実世界で存在を軽視されて死の危険に何度も出会ってる。それで、大丈夫だって言える?」
サフランが嫌味たっぷりに言うと、ルーはこっくりと、当たり前のようにうなずいた。
「うん。大丈夫だ。僕はあのときからいつだって大丈夫になった」
サフランはぽかんとし、次に考え込んだ。そんなこと、あるのだろうか? 他人に、それも他の星の生命体に自分の運命をゆだねて、大丈夫だ、なんて。
そのとき、スズムシの羽音のような、澄んだ音色が聞こえてきた。何度も何度も、サフランの中に響いた。
「呼ばれてる」
ルーがつぶやいた。サフランはハッと振り返る。
宮殿の入口に目が吸い寄せられた。アーチ形の入り口が何重にも見える。めまいのしそうな渦巻き模様の真ん中に立ち、ぐらぐらと視界が歪んでいくような酩酊感。スズムシの羽音。誰かが呼んでいる。サフランは取り憑かれたように中に向かって進みだした。
ここが、彼らの宇宙船? 何だか、酒の中に浸かっているかのような気持ち悪さだ。
隣にルーがいた。彼女が見ると、彼は彼女に「君は呼ばれたんだ」と言った。
「彼らは君を呼んだ。君に伝えたいことがあるんだ。きっと彼らは君を納得させてくれる。この、君の耐えがたい生について」
ルーと共に歩いて行く。グニャグニャした感触の、奇妙な液体の中を歩いている。何もかもが金属的に歪み、青く光っている。きょろきょろと辺りを見回すが、ここがどこなのか何もわからない。
来てくれてありがとう。
いつの間にか目の前に女がいた。「彼らの一人だ」とルーがささやいた。女は、彼女が夢を初めて見たとき、最初に彼女を覗き込んでいた女だ。東洋的な顔立ちで、極めて美しいがアルカイックな捉えどころのない笑みを浮かべ、感情が何も読み取れない。
サフランは体を持っていることに気づいた。先ほどは十四歳ごろの彼女の姿をしていたが、今は現実と同じ、十八歳の彼女の姿をしている。ブラックジーンズとロングブーツもそのままだ。
「ここは?」
私たちの宇宙船。
「あんたは?」
地球外生命体と言えばわかるかしら? 地球人ではない生物よ。
「あんたたちはそういう姿なの?」
女はくすくす笑った。唇がほとんど笑っていない笑い方だ。
私たちとあなたたちは別の星の生き物よ。こんなに似ているはずがないでしょう? イメージをあなたたちに似せているの。ただし、私たちはほとんど体を捨て、データ化している。将来のあなたたちみたいにね。
サフランはまじまじと女を見た。女は静かに彼女を見つめる。
「あたしが死んだら、そっちの世界に行くって本当?」
ええ。
女はうなずく。
「やめることって、できる?」
女は笑った。
できないわ。
「強制ってわけか」
あなたたちの文化は面白いわ。互いが違いすぎるがゆえに様々に話し合い、争いごとを回避するためのルールを作る。あなたたちは私たちからのプレゼントを、強制性のある押しつけられたもののように思う。
「プレゼントって……あんたたちはおめでたいんだね」
もうこのナノマシンを受け取ってしまうと、体ごと作り替えられてしまうから、元に戻ることはできないの。人類が多くの物質を取り込みながら細胞を次々に入れ替えていくように、あなたの体はもう不可逆的に変わってしまっている。
「どんなふうに?」
例えば、ナノマシンを作りやすい体に。他の人類に対してそれを拡げやすい体に。
「あんたたちの都合ばかり」
そうかしら? 石を持つ人たちの多くが、人生に鬱屈を抱えた人ばかりだということを思えば、そうとは言えないわ。彼らは皆生を辛いものと思っていた。けれど、私たちのプレゼントによる、互いを情報として結びつけ合う効果、互いの情報を交換できる効果を知ってから、彼らは他の人類に寛容になった。彼らは人生に納得が行くようになったの。
「おめでたいね、そいつら」
あなたは手強いわ。トラウマを抱えた人類は多くいるけれど、あなたはとにかく死に向かって突き進んでいる。捨て鉢だわ。そんな人に、私たちはスペシャルケアをしている。
「いらない。何だよ、スペシャルケアって」
サフランは苛立ちながら言い捨てた。女は微笑んだ。サフランが粘り気のある液体の中で体をうごめかせていると、女は周りを泳ぐように回った。サフランを観察しているように見えた。
あなたには可能性がある。これから生きてナノマシンを拡げるという可能性が。
不意にサフランは隣にいたルーが消えていることに気づいた。慌てて見回すが、この青い歪んだ世界の中には彼女とこの女しかおらず、気配すら感じない。
彼には少し席を外してもらったわ。
サフランは不思議とパニックを起こさずに済んでいることに気づいた。この奇妙な青い液体は、彼女の精神を強制的に落ち着かせているように感じる。
「……何で? 石なんて広げてどうするの? この石のせいでたくさんの人が嬲られて死んだ。そこまでして広げなきゃいけないの?」
女は笑みを深めた。
そのことには責任を感じてはいるけれど、みんな嬲られたことにはさして問題を感じてないわ。彼らにとって重要なのは死んだあとのことなの。
「それでも、石を広げる意味が分からない」
私たちの未来のために、必要なのよ。
女は段々大きく膨らんでいく。両手でサフランを包むような格好になり、彼女は東洋の仏像のてのひらに立っているような気分になる。それから女は更に大きくなり、サフランの上下左右が女に包まれる。とうとうサフランの視界は女の顔だけになった。
視界いっぱいの女の顔は、優美に微笑み、次第に顔だけが裏返ってサフランを包んだ。前後左右が女の皮膚で包まれた格好で、それにもかかわらず顔は顔だと認識できた。東洋的な真っ直ぐな鼻も、月のように笑う目も、微笑い続ける優しい口も、全てがサフランの周りにあった。サフランが混乱していると、女の声が謝った。
ごめんなさい。あなたの感情を揺さぶる光景を試しているの。
そう言うと、大きな顔にはたくさんの裂け目ができ、今度はその避けた部分全てが女の姿になった。それぞれが金魚のように空間を泳ぎ、全てがサフランを見て笑っている。
それとも、こうがいいかしら?
分裂した女たちは、揃って母の顔になった。優しく笑う、心が空っぽの母の顔。サフランが顔を歪める。
こうするべきかしら?
今度は父になる。長身で優しい笑みを浮かべた父に。何人かの父は空虚な顔をし、一人は彼女を深く傷つけたときの父の顔をしている。サフランは頭を抱えて首を振った。
このままじゃただあなたを傷つけてしまうのね。じゃあ、こうしましょう。
とうとうルーになった。ルーは笑い、手招き、彼女を慕わしげに見つめている。サフランは感情がうまく定まらなくなってきた。彼の全てを受け止める勇気が出ない。
色んな人がいいのかしら?
ついには全てのルーがサフランの人生に関わってきた多くの人々に変わった。支援施設に連れて行ったダミア。彼女にはサフランが特別に感情移入をしていた。ロスアンゼルス近くの宿の少女アリー。彼女はとても優しい、サフランの友達だ。セントルイスの人々も。お調子者で女好きのオーキッド。彼は最初苦手だったけれど、最後には仲良くなれた。大雑把でぶっきらぼうなラベンダー。彼女は最初からサフランに優しかった。ローズマリー。幼くてあどけない、ラベンダーの娘。サフランが癒されたのはこの女の子の存在も大きかった。穏やかで傷ついた人を放っておけないサリヴァン。彼の親切さのお陰で今の彼女はある。優しくて彼女のことを全力で想ってくれるネッド。彼のことが本当に好きだった。頑固で優しいトンボ婆。彼女はいつもサフランの幸せを願っている。サフランが最も失いたくない人の一人。死なせてしまった明るいデビー。後悔の気持ちが続いていて、彼女が望むことがあるなら叶えたいと思ってしまう。ダニエル・グレイ。彼女の兄で、全く利己的な人間。ヘンリー・グレイ。彼女から人生を奪ったトラウマの根源。冷たかった母。愛情を持たなかった人。そして大勢のサフランが殺した人々。母、父、トンボ婆、ネッドは次第に数が増えていく。父と母は更に増殖し、段々と彼女の周りをぐるぐる回り始める。父を殺したときの穴だらけの死体もある。
彼女が目をつぶろうとしたとき、目の前にてのひらが現れた。本の読みすぎでかさかさに乾燥したてのひら。細長い指が繊細に伸びた少年の手。サフランが顔を上げると、ルーは微笑んで彼女の手を握ってそっと立ち上がらせた。サフランは彼を見つめる。長くて黒い髪を垂らし、服装はいつものワンピースにジーンズだ。
「サフラン、怖がらないで。彼らの話をきちんと聞いて。僕が手伝うから」




