あの男の秘密
スュン教本部では大混乱が起きていた。ヴァン聖人が殺された。その知らせが入ってきた次の瞬間にはヴァン聖人の長男ダニエル・グレイが殺人犯を捕まえて連れてきた。ダニエルが部下に縛り上げさせた大柄な女は血にまみれ、いかにも狂気を帯びているように見えたらしい。目の前を通ってビルの奥に連れていかれる彼女を目の前にした幹部たちは、口々に祈った。
彼らは自分たちの高価な長い衣装が彼女の血だらけのブーツで汚されないよう大袈裟に避けた。彼女の顔に見覚えのある者はいなかった。のちに彼らは犯人の名前を知って大騒ぎをするに決まっているのだが。
殺人犯の女は落ち着いていたが、どろんとした目つきは彼らを恐怖させた。ヴァン聖人のような立派な体格の、神聖なる地位の男を殺した女というだけでも恐ろしいのに、女が罪の意識を抱いているように見えなかったのだろう。
実際のところ、サフランの意識は父親を殺したという事実に打ちのめされていた。あれほど殺したいと思っていた男、彼女を凌辱した男を殺すことができたというのに、達成感などなかった。安らぎすらない。彼女はただ、今まで抱いていた無力感とトラウマに罪悪感を加えただけのような気がしていた。
復讐はなされた。けれど、彼女の魂を救うという意味では失敗だったのだ。
「この女をしばらく懲罰室に置くこととしてもよろしいですか?」
ダニエルは痛ましげな顔で長老の一人に訊いた。その男は彼から表情をコピーしてうなずき、「そのほうがいいだろう」と重々しく言った。
サフランはごくごく狭い、いつかの旅で見たことのある精神科病院の重篤患者の部屋のような場所に入れられ、金属の扉を乱暴に閉じられた。残響は耳に残った。
殺してしまったのだ。父親を。それなのに安寧は訪れない。
髪を掻きむしり、顔を歪め、彼女は絞り出すような泣き声を上げた。
事態が変わったのはそれからすぐのことだった。ドアに開いた小さな格子窓から光が入った。バタバタと、誰かが部屋の前にやってきた。数人の男たちが立ち止まり、その中の一人がドア越しに尋ねた。
「君。君は石を持っているのか? サンフランシスコの連中が持ってる石だよ」
サフランはぼんやりとドアを見つめた。ダニエルだ。いつものようなふざけた様子は感じられない。
「答えてくれないか」
「持ってる」
「そうか」
ダニエルは静かに言うと、一息置いて少し声を大きくして尋ねた。
「君が父に感染させたのか?」
「意味がわからない」
彼女が答えると、金属製のドアは思い切り蹴られる音がした。
「なら誰が父に石を感染させたんだ? いつから父は石を持っていたんだ? 父はわかっていたのか? 我々は、石を持った父とずっと接していたんだぞ」
ダニエルをなだめる声が聞こえる。周りの部下の男たちだろう。サフランは黙る。
「意味が分かっていないようだから教えてやろう。父の遺体に、サンフランシスコ由来の感染性の石が埋まっていた。父は何も言っていなかった。君が原因なら――」
「石はごく近くで二、三日以上過ごさなければうつらない。あたしはそう聞いた。あたしはあいつにほとんど触れてない。十四歳のときの一日を除けば。あいつは女好きだし、女の一人にうつされたんだと思う」
それも故意に、とは言わなかった。ダニエルはしばらく黙り、そして大股でそこを出ていったようだった。
なるほど、あの男がルーに興味を持っていたのは、そのせいだったのだ。
サフランは黙ってドアを見つめる。もう夜中だ。真っ暗で、静か。寝たら、ルーに会えるだろうか。ルーは元気だろうか。彼女のこの状況を知りたがるだろうか。ルーの状況がわかるのはいい。でも、自分のことを教えたくない。
でも、彼女のまぶたは落ちてきていた。どんなに努力しても、闇の中で目玉は裏返り、夢の世界を見たがっていた。
ジャクジャクジャク、と聞こえてくる。ハキリアリの葉を噛み切る音。ああ、こんなときも始まるのか、とサフランは思う。夢が始まる。ルーと、ルーが《彼ら》と呼ぶ者たちの夢が。
何となく違和感があった。体が軽い。目線は高くなっているのに、少し低く感じる。彼女は自分の体を見下ろした。直線的な水色の衣装の下の体は、中性的な少女の体型だった。広々とした白い地面にぽつりぽつりといる人々は、相変わらず新しく生まれてきた赤ん坊の世話に熱心だ。きっとその赤ん坊は彼らにとって重要な現実世界の友人や恋人や家族で、ルーやデビーにとってのサフランのようなものだろう。
「わあ、やっぱりサフランは美少女だね」
いつの間にか現れたデビーが、サフランをじろじろと見上げていた。
「十四歳ってところかな。髪も長くてとってもかわいい」
背中までの金髪は垂れていて、彼女は一気に不快感を抱いた。デビーはにこにこ笑い、
「ルーが騒いでるよ。今大変なんでしょう? どう? 目標は達成した?」
「ルーが? ルーは元気なの?」
声まで十四歳だ。かすかに甲高く、のびやかな声。
「うん。ヴァン聖人に捕まって色々尋問されて、解放されたって言ってたよ」
サフランは完全に気が抜けてしまった。ホッとしすぎて、もう何も頭に浮かばない。きっとあの男は石が体にできたことで、他の石を持つ人々に興味を持ったのだ。用が済んだので逃がしてくれたのだろう。
「それよりサフランが大変なんじゃない?」
デビーが訊く。サフランは首を振る。
「ヴァン聖人を殺したの、サフランでしょ? あいつ言ってたよ。かなり騒ぎになってて、処刑だの裁判だの大騒ぎだって」
そんなの……とサフランは笑う。覚悟はできていたことだ。死ぬなんて、どうってことない。
「でも死ぬかもしれないんでしょ? 助けはいる? ルーはそのつもりだよ。仲間たちも乗り気らしい」
「余計なことはしなくていい」
デビーは首を傾げ、振り向く。ルーが立っていた。心配そうな目つきで。サフランは思わず彼を抱き締めそうになるが、やめた。ルーは一歩近づき、彼女を見上げる。
「今どこにいるの?」
「秘密」
「ヴァン聖人を殺したのはサフランだよね。そのあとどうなったの?」
「教えない」
ルーはため息をつく。それからいきなりサフランの手を取った。彼女はそれを振り払う。
「何」
「僕と一緒に上の世界に行こう」
彼女から記憶を読み取るつもりなのだ。彼女はイライラしながら伸びてくるルーの手を再び振り払った。
「あたしはあんたの助けなんていらない」
「それなら僕は君を探しに行くまでだ」
「余計なことしないで」
「なら今教えてよ。僕が余計なことをしなくて済むように」
サフランはため息をついた。そして、地面を蹴って、すい、と飛び上がった。ルーもすぐについてくる。デビーは来ない。天空に広がるあの街並みに、うろこ屋根の美しい都市に、彼らは飛んで行った。




