銃撃
サフランは銃を構えた。階段の上段に立つ男は、充分に狙える距離だ。殺してやる、と彼女はつぶやいた。殺して、あんたをいなかったことにしてやる。
「そんなことにはならないよ」
男は微笑んだ。ゆっくりと、歩み出す。サフランのほうに向かって。コツ、コツ、と木の音がする。彼の祭祀用の靴で、底が樫の木になっている。
「私の存在はなかったことにはならない。多くの人々が覚えているし、噂するし、何より君の記憶から消えない」
サフランは後ずさった。
「それに」
男はなおも近づいてくる。とうとう眼前に立ち、大柄な彼女より大きな影が彼女に落ちかかる。
「君は父親を殺せないだろう? ほら」
男はサフランの至近距離にいた。彼女の拳銃をぐっと握り、銃口を手で塞ぐ。
「ここまでしたって撃てない」
サフランは震えていた。全身が言うことを聞かない。引き金にかけた指が動かない。足も動かない。全身が冷え切っている。
涙が溢れ出した。
「おやおや、泣くのかい」
男は困ったように微笑み、手を銃から離した。それから彼女に背を向け、ゆっくりと階段を上がっていく。
「私がヴァン記念日は嫌いだと言ったことを覚えているかい?」
男が上がっていくのに、銃を構えたまま、サフランはついて行く。涙は止まらない。鼻水も、嗚咽さえ漏れる。
「あれは本当でね、――私は誕生日にスュン教の幹部からレイプされたんだ。十一歳のときだったよ。それは強く記憶に残ってね、大人が信じられなくなった。この私を、優秀な司祭候補である私を、女のように、嬲って……。一年に一度、誰かを生贄にしなければやりすごせなかった。あれは私ではなかったのだ、私に似た誰かだったのだ、そう思うためにね。けれどうまくはいかなかった。やり過ごせるのは一年だけ。年に一度、私の誕生日はやって来る。ヴァン記念日を毎年催すことが決まったときは、地獄のようだった。誰かを生贄にしなければ。女たちを、大勢の女たちを犠牲にしなければ……。君はあのとき特別美しくて、特別あどけなかった。犠牲にするなら君だと思った」
崩れ落ちそうになりながら、サフランはついていく。もう、銃はほとんど手からぶら下がっている。どうして殺せないのだろう? 自分はこうも情けないのか? と何度も問う。ぐずぐずになった頭では、うまく考えられない。
「あたし、は、あんたのせいで『愛してる』だとか『美しい』だとか、そんな優しい言葉に喜べなくなった。むしろ怖くて、死にたくなる気持ちを強める言葉になった。あんたが、あんたがあのときあたしに何度も言った言葉だったから」
サフランはようやく言った。喉が痛むほど体が抵抗するのを、無理矢理言葉にした。男はうなずいた。
「そうだろうな」
「誰かに愛されて、愛を返したいと思ったとき、どうしても心に障壁ができる。セックスをすることになったらどうしよう――そんなことを考えてしまって」
「そうだろう」
男は後ろ姿でまたうなずいた。サフランはまた涙を溢れさせた。
「あんたのせいだよ。あんたがあたしの人生を滅茶苦茶にした」
男は無言で階段を上がり続ける。サフランはそれに同じ速さでついて行く。
光が強くなってきた。見上げると、天窓から線の重なりのように光が注いでいた。夕暮れの、薄黄色の光。
男が微笑んで振り向いた。
「見たまえ」
螺旋階段の踊り場に、何かが落ちていた。シーツで包まれた何かは細くて大きく、人の形をしていた。
「ジェイク・ワン君だったかな? 彼はサンフランシスコの出身のようだね。部下が連れてきて、ほら、今はこうして眠っている」
サフランは息を止めてそれを見た。シーツに包まれた人。血が溢れている。シーツはひどく汚れ、粗末な彼の、死を、イメージさせた。まさか。まさかそんなはずはない。彼は彼女が守っていたのだから。誰かに殺されるはずなんてないのだから。男がそれに近寄っていく。鼻を寄せ、彼女に振り返る。臭いね、血の匂いだけじゃないな。サフランは、絶叫した。
何度も撃った。男に当たろうが、当たるまいが構わなかった。銃弾は、十五発用意して目一杯入れていたが、それを全て放った。額を撃ち抜いた一発目で男は絶命したはずだが、それでもなお放たれる銃弾によって、その体は倒れるまでに何度も撃たれた。倒れた体にも数発撃ちこみ、もう何のために撃っているのかわからなくなった。穴だらけになった男の顔から、体から、血が溢れていく。散らばった薬莢がそこに浮かぶように輝いている。血は海のように広がり、階段を垂れていく。拳銃は驚くほど熱く、銃を握った腕が、指が、しびれるように痛い。
この男は、サフランの心を殺しただけではなく、ルーを殺してしまったのだ。
荒く息をしながら、彼女は男の死体を乗り越えて踊場へと向かった。ルー、ルー、とうわごとのように繰り返しながら。それからシーツを剝がそうと手を――。
「終わったかい?」
声がした。振り向くと、下からダニエルがのんびりと上がって来ていた。散歩でもしに来たかのように呑気な顔だ。笑ってさえいる。
「とうとうやったんだね。おめでとう」
サフランはへなへなとしゃがみこんだ。ルーが、ルーがとうめく彼女を、ダニエルは軽く笑う。
「そのシーツの塊かい?」
彼は軽い足取りで父親の死体を乗り越え、踊り場のそれに近づいた。そして、片手で軽々と持ち上げた。
「ただのシーツだよ。これが何か?」
シーツにはワインが染み込んでいた。男は、父親は、彼女を謀ったのだ。でも何故?
ダニエルは微笑み、シーツの塊を放り投げる。それは血の海に落ち、赤く染まっていく。本当の血の色に。
「約束は守ったよ。今度は君が約束を守る番だ。父を殺した賊として、君を処刑させてくれ」
サフランは呆然と彼を見上げた。涙は、とうに乾いていた。




