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サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート4
34/40

あの事件の記憶

 夕暮れの美術館跡は、寂寥感がある。シカゴ現代美術館だった建物には、張り出した両側の間に広く長い階段がある。古代文明建築物風のデザインだ。マヤ文明のピラミッドのようでもあるし、階段が顔になった化け物にも見える。今となってはこの美術館の美術品全てが《冬眠者》の元に持ち出され、ロボットたちの管理下にある。全ての部屋が空であり、時折スュン教の祭祀に使われる程度だ。


 男はそこに立っていた。薄暗い内階段の踊り場に。この階段は奇妙な形の螺旋階段で、人間の目のような角を持った形に回っていた。男の姿は上からの光に照らされ、青い衣装は白っぽく、浅黒い顔は真っ白に見えた。呆けた顔をしていた。六十代前半で、同年代の誰よりも若かったはずが、七十歳にも、八十歳にも見えた。しばらく上のほうを眺めると、男は帽子を取った。それから胸元にそれを持って行き、熱心に祈った。頭の上は少し薄くなっていて、髪はどこまでも真っ白だった。三つ編みされた毛先は乱れ、編み込まれた青いリボンはほどけかけていた。青ざめた顔は、整ってはいたが少し幽霊じみて見え、神経質そうに眉が震えていた。


 サフランは歩き出した。ゆっくりと、気配を消し、男のために選んだ銃、武骨でありふれたベレッタ92を、汗ばんだ手で握りしめて。何もかもが研ぎ澄まされている。聴覚も、視覚も、触覚も、味覚も、嗅覚も。夕暮れの、あの日と同じ祭りの残滓の匂いがする。焼かれた香草。人いきれ。春の香り。それから、自らの心臓の音。思い出のトンボ婆の丁寧な言葉遣い。母の戸惑いの視線。キスの味。彼女を抱き締めたルーのなめらかな肌の感触。――今、この場所の埃混じりの冷たい空気。サフランは五感からありとあらゆる刺激を感じながら階段を上がる。男のいる場所に近づいて行く。男は振り向かない。十段ほど下で立ち止まり、サフランは自分の様子を確かめた。


 静かな気持ちだ。ルーとはぐれたときのように、取り乱すかと思っていた。でも、そうはならなかった。きっと、うまく行くだろう。彼女は男を殺すだろう。ルーを取り戻すだろう。そして本当の心の平穏を得るだろう。


「君はこの螺旋階段が好きだったな」


 不意に、男が声を出した。いつも通りの、張りのある声だ。サフランはびくっと体を震わせた。男はゆっくりとサフランに顔を向けた。平静な、穏やかな顔だ。


「君が三歳の時に、君のお母さんと君と、三人でここに立った。私は踊り場で肩車をして、高すぎると言って泣く君の涙を拭いてやった」


 ぐらぐらと、足元が歪んだかのようなめまいがした。ここに来て思い出話か。覚えてもいない、思い出したくもない、家族の幸せな記憶。


「私は君に大型犬をプレゼントした。白くて、ふわふわの……。かわいい犬だったね。大事にしてくれていたようだった」


「あんたが」声が感情的になっていた。「あんたが殺したんじゃん、ジャクリーヌを!」


「そう、私が殺した。君を私のものにするために」


 サフランは、頭痛を感じていた。それに、ひどい寒さ。体中の血液という血液が、頭に集まってきているような気がした。男は静かな目をしていた。それが彼女の怒りを掻き立てた。




     ***




 突然暴君になったときの父親を思い出した。書斎で話していて、突然目つきが狂暴な色に染まったあの姿を。


 あの日、サフランは男に呼び出された。話があるとのことだった。男の住む家とは違う、仕事用の小さな家で会いたいということで、きっと正妻に会わせたくないのだろうと思った。ずっと公式に接することのできなかった父親に会えて、彼女は顔を上気させていた。十四歳の彼女にとって、父親は尊敬の対象であり、憧れだった。彼女はジャクリーヌについて礼を言っていた。かわいくてよくなついていると、優しくて彼女をいつも守ってくれると、笑みを浮かべて。ジャクリーヌはそばに控え、白くてふわふわの毛並みに覆われた長い顔を彼女に向けてお座りをしていた。彼女は犬を撫でた。頭のてっぺんは頭蓋骨の滑らかさを感じるし、ジャクリーヌの体はいつものように筋肉質で固くて、とても温かかった。熱いくらいだった。彼らはひとしきり話をした。彼女の勉強の話、趣味である刺繍の話、トンボ婆のこと、母のこと、ジャクリーヌのこと。きっと父親は彼女のことを知りたがっているだろうと思って、彼女はできるだけ多岐にわたる彼女の話をした。男はうなずき、ひじ掛けに頬杖をついて微笑んでいた。


 今日はヴァン記念日だったと男は言った。私は、嫌いなんだ、誕生日が。彼はそう言った。どうして? 彼女は素直に尋ねた。どうしてです? お誕生日でしょう? 次の瞬間、男はあの目つきになり、嫌いなんだとゆっくり繰り返した。その顔に彼女は不気味なものを感じた。男は微笑んでいたし、親しげに彼女の肩を抱いていたのに。そう、彼はいつの間にか彼女のいる長椅子に座っていた。その手はするりと彼女の長いスカートの裾に伸びていき、生ぬるい手で足を触る。そのときようやく彼女は異変を感じた。わからないままに危険だと思った彼女はそっと逃げようとする。しかしその前に男は勢いよく彼女の手首を掴んで彼女を書斎の長椅子に組み伏せた。彼女が暴れて逃れようとすると、ジャクリーヌが助けに来てくれた。男の腕に噛みつき、その隙に彼女が逃れると、犬を振り払った男は悪魔のような表情で歩いて行き、机の引き出しから拳銃を取り出した。あっと言う間もなく、男はジャクリーヌを撃った。銃弾は犬の心臓に命中し、ジャクリーヌは倒れ伏し、痙攣して絶命した。彼女は叫び、助けを呼んだ。誰も来ない。男が乱暴に彼女を長椅子へと引き戻す。彼女が叫ぼうが、泣こうが、全く変わらない。男が彼女をなだめる言葉を口にしながら、自分のしたいことをしていたあの瞬間は、人形に魂を押し込められたような気分だった。体は思い通りに動かず、悪夢の中のように、もったりと重い。


 終わると、男は着衣を整え、無言で部屋を出て行った。彼女は長い間そこから動けなかった。最初かなり暴れたので鼻血が出ていたが、拭く気力すらなかった。涙が垂れていたが、今垂れているのかその前に垂れていたのかわからなかった。男がいなくなってからかなり経ち、今何が起きたのかをようやく考えた。いくら考えてもわからなかった。頭が考えることを拒絶していたし、本当に何だったのかわからなかった。ただ、踏み躙られた彼女の男への親しみを、憧れを、彼女の尊厳を、他人事のように可哀相に思った。


 ドアの鍵が外れていることに気づき、サフランはふらふらとそこから書斎を出た。すでに記憶が曖昧だった。どうして今ここにいるのかもわからない。無人の玄関ホールから外に出ると、トンボ婆が悲鳴を上げた。ずっと待っていてくれたのだ。ずっと心配してくれたのだ。サフランはようやく声を上げて泣いた。


 家に着くと、トンボ婆が無言で風呂に入れてくれた。気に入っていた愛らしいデザインのワンピースは破れていて、汚れていた。捨てましょうかと言われ、うなずいた。あんなに好きだった服なのに、興味が急になくなって、嫌だから捨てたいのもあるが、単純にいらないと思った。暖かい湯船の中で、彼女はぐずぐずと泣きながらトンボ婆に洗われた。風呂上がりに母親に会った。そのときの彼女の顔。目を丸くし、硬直してはいたが、その後も何も言わなかった。


 バルコニーに、アイリスの花が咲いていた。トンボ婆が毎年育てている花だ。プランターに並んで咲く濃い紫色の花は、アヤメ科独特の大小の花びらを広げていた。何だかしおれているように見えた。よく見ると土が乾いている。トンボ婆が彼女を心配するあまり、世話することを忘れてしまっているらしい。後ろに気配を感じた。


 ここにいらしたんですか、とトンボ婆は言う。ヴァン聖人があなたに会いたがっています。サフランは青ざめる。どうして? と訊く。トンボ婆は不思議と決然とした表情で、ためらう様子もなく言う。あの方の家に、お嬢様を娘として住まわせたいのだそうです。だから……。言葉は悲鳴により中断された。サフランは泣き叫んだ。狂気に至る寸前のように。あんなところに住んだら、また同じ目に遭うじゃん、絶対に嫌。大声で泣く彼女を、トンボ婆が抱き締める。トンボ婆の体のすえた匂いが、温かい体温が、彼女を落ち着かせる。逃げましょう、とトンボ婆が言った。ここから逃げて、とんでもない未来を変えてやりましょう。こんなのは、あたしたちの目指した世界じゃない。

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