幼いころの記憶
「あの人があたしのお父さんなの?」
サフランは幼い声で隣の人物に尋ねた。ヴァン記念日だということで窓の外を眺めていたら、ヴァン聖人がやっと彼女のいるコンパートメントの前を通ったのだ。背が高くて、ハンサムで、優しそう。六歳の彼女は目を輝かせて彼を見つめた。みんなに手を振っている。みんなと話している。誰も彼もが彼を尊敬のまなざしで見ている……。誇らしい気持ちが彼女の心を満たした。
「ええ、そうよ」
その人はジャクリーヌの毛を鋏で器用に刈りながら、優しい声で答えた。白い犬の毛は音もなくフローリングの床に舞い落ちていく。サフランは少し不思議に思った。ヴァン聖人のことを誇りに思わないのだろうか? あんなに素敵なのに。自分の夫なのに。
「ママはお祝いに行かないの?」
「行けないわ」
「行けない?」
美しい金髪の母は、大きなジャクリーヌが暴れても間違って自分の髪の毛を切ってしまったりしないようにポニーテールにしていた。ポニーテールが動くたびに揺れて、サフランは愉快になった。母に甘えようと、温かくて固いジャクリーヌの体越しに母に手を伸ばすと、母は「あとでね。ジャクリーヌのぼわぼわの毛を切っちゃうから」と振り払った。ジャクリーヌが大きな口を開けてあくびをした。長い口が裂ける様は、蘭の開花に似ていた。
「ふうん。で、どうして行けないの?」
「行けないのよ。どうしても」
母はサフランを一切見ずにそう言った。トンボ婆が割り込んで、「お嬢様、トンボ婆とお花に水をあげましょう」と笑いかけてきた。不満な気分が残っていたが、サフランはそれに応じた。どちらかというと、サフランはお手伝いのトンボ婆のほうに懐いていた。いつも詩集を読んだりお茶を飲んだり、ベッドルームでただ惰眠をむさぼるだけの母は全く母らしくなかった。トンボ婆は心の底からサフランを可愛がっているし、おいしいおやつを一緒に作ってくれたりする。ニューヨーク仕込みのカップケーキを作りますよ、と言われて一緒に作った蜂蜜入りのおやつは、最高においしかった。
母は、父の正式な妻ではなかった。父には正妻がおり、母は時折呼ばれて行くだけの愛人だった。それに気づいたのはずっとあとのことだ。
サフランはのちに母を捨ててトンボ婆と共に家を出た。母はおそらく彼女を愛していなかった。そうでなければ、どうして彼女があの男にされたことに無関心でいられる?
ルーと出会ったことで石による夢を見たとき、現れた人物は母だった。あのあと、どういう経緯なのかわからないが死んでしまったらしい。おまけに石持ちになって。そのことに驚きはあるが、母を喪ったという悲しみはない。でも、あのとき母はうろたえたように彼女に近づき、ごめんね、と言った。サフランはそれによりひどい苦しみを引きずることになった。
***
ヴァン聖人は去り、広場では人々がギターや古いアップライトピアノを運んできて、ちょっとした音楽パーティーの様相を呈してきた。ワインを飲みながらコオロギクッキーバーをかじり、人々はそれを楽しむ。臨時の音楽バンドが結成され、楽器演奏だけだったのが、一人の男が大笑いしながら現れてスムーズに巧みな歌へと声をチューニングして素晴らしい歌唱を披露し、盛り上がり出す。広場はダンス会場になる。大人も子供も思春期の少年少女も、二人で、あるいは大人数で輪になって躍る。サックスが色気のある音を鳴らす。ムードが変わり、誰も彼もが何もかも忘れたようにうっとりとその甘やかな空気に浸る。
大騒ぎはいつまでも続き、夕暮れが近づいて祭服を変えた男が再び現れたときには多くの男たちは酒で酔っていたし、皆の服装がだらしなくなっていた。ヴァン聖人だ、と誰かが酔いつぶれた声で言った。男は濃い青の衣装になり、明るく笑いながらこう言った。
「皆、楽しく一日を過ごせただろうか。無駄遣いはしなかっただろうか。他人に失礼を働かなかっただろうか。いや、何事もなく、立派に楽しめたのなら結構なことだ。今日は私の誕生日を祝ってくれてありがとう。春分の祭はしばらく前に済んではいるが、今から春の神に祈りを捧げよう」
大騒ぎをしていた人々が、突然揃って背筋を伸ばした。しん、と静まり返る。男も女も、子供たちも真剣な顔になり、目の前の青い衣装の司祭を見つめる。
男が厚みのある声で祈りの言葉を始めると、広場の人々が一斉にそれに倣った。慣れた調子で春の神への感謝を捧げ、スュン教への誓いに移る。轟音のような、歌のようなそれは、天国の扉を開くために日々人に親切にすること、自然を愛すること、《冬眠者》の眠りを妨げないこと、などが文言としてあった。
スュン教徒は、いや、《残されし者》は、永遠に《冬眠者》に逆らえないのだ。彼らが残した発電所やグラハム・ベルを始めとする《贈り物》は、《残されし者》が監視されているからこそ使える。CO2濃度や気温や海の水温、その他汚染物質について緑化装置が問題に気づくと、《贈り物》は使えなくなってしまうのだ。だから《残されし者》は《冬眠者》に気を遣わざるを得ない。
サフランは、無表情にそれを見ていた。男は皆に別れを告げ、再び本部のビルに入っていった。




