再び旅は始まる
サフランは夢見心地でわあわあと叫ぶ人々の声を聞いていた。夢の中のルーの声は次第に遠のき、今まで彼女が夢と現実をごちゃまぜにしながら歩いていたことに気づく。
顔に何か固いものが当たった。痛みにより目をゆっくりと開く。そこは広場だった。あの日ヴァン記念日のスピーチが行われ、父親が皆に祝われていたあの場所。数えきれないほどの顔が周りに並んでいた。ひしめき合い、彼女を睨んでいる。男も女も子供も、皆お揃いのような怒りの顔になり、彼女を罵っている。後ろ手に縛られた手は擦れて痛みを感じる。目の前にはイチイの木でできた絞首台がある。四角い、枠のようなものが立った台で、渡された棒にかけられたロープを後ろに引っ張るようになっている。ダニエルが遠い場所に立っている。まだ若い彼は、少し戸惑ったように彼女についての口上を述べている。悪辣な女、はしたない女、殺人を犯した女、と続け、彼は彼女のことをこう呼ぶ。
「アリス・グレイ・エヴァンズは妹の一人です。私はとても恥ずかしく、情けなく思う。非の打ちどころのない父を、情け深い父を、ユーモアと優しさに溢れた父を、こうして残酷に殺したこの女を。許すべきではない、そう、この、ええと――信じがたいあばずれを」
人々は大声で怒鳴る。一人一人が別のことを言っているが、どれも同じに聞こえる。つまりはサフランが酷い女、悪い女、死すべき女、ということだ。
「これからこの女を絞首刑とする。スュン教で認められた唯一の、最も罪の重い罪人への罰だ。この女は天国へ行けない。我々と同じ場所には行けないのだ」
サフランは台の上に連れていかれる。人々の顔がよく見える。彼女は憎まれている。悪女だ。父親を殺した殺人鬼だ。彼女は肩で息をした。吞み込まれそうだ。
「アリス、何か言いたいことは?」
ダニエルが訊く。サフランは一息置いてから彼をじっと見て、答える。
「くそったれ」
観衆のボルテージが上がる。サフランは石を投げつけられ、靴をぶつけられ、罵倒される。ダニエルは芝居がかった様子で祈る。
「これがこの女の答えです。ああ、女神スュンよ。我々をこの女の悪意から守りたまえ!」
縄が用意されている。彼女はそこに立ち、素早く巻かれた麻の丈夫な縄がマフラーのようになる。きゅっとそれは締まる。息が苦しい。もう終わりだろう。あの未来を待つしかない。彼女の人生はここで断たれ、違う星の、違う人生に期待するしかない。「サフラン!」声がする。「サフラン、こっちだよ!」視界の隅に、本当のルーがいた。髪の長いルー。優しくて温かいルーが。
「これ、君のだろ? 投げるよ!」
足元に、壊れた懐中時計が落ちた。他の靴や、石や、レンガ片と同じように。
何だっけ、これは。
そうだ。ネッドがくれたんだっけ。持ってろって。
これはマイクだからと。何に使うマイク?
そうだった――――。
サフランは、足元に落ちた懐中時計に、叫んだ。
「ミセス・エヴァンズ、全速力でこっちに来て! たまには助けてよ、ママ!」
ダニエルや、彼女の周りのスュン教徒たちが驚いたように彼女を見た。しかし恐怖で狂った女の世迷言としか思っていないのか、すぐに作業に戻った。ロープはイチイの木の絞首台にかけられた。全てが完璧に整った。
ロープが引っ張られ、サフランはぐっと喉が詰まるのを覚えた。背の高い彼女は、幾分か多めにロープを上げなければならない。
ぐ、ぐ、とうめきながら彼女は大きな台の上に立つ。足は、台から浮いて行く。後ろでせっせと彼女のロープを引っ張っていた男たちは、やがてロープを動かすのをやめた。ぶらん、と彼女は首で吊られた。本能的に体に力が入る。息がひどく苦しく、首が伸びる感じがある。間に合わなかったか、と思う。ママは、間に合わなかった。
ミセス・エヴァンズとあのロボットに名づけたのは、無意識だった。母はミセス・エヴァンズと呼ばれていた。あとで気づき、一度も助けてくれなかった母の名前をつけるなんて滑稽だなんて思ったりもした。すっかり馴染んで、今やただの名前になってしまったけれど。
夢の中で、母は言った。あのあと私はあの人に抗議したのよ。あなたは守られるべき娘だった、そう言うために。サフランは感じ入ることもなく、ただ淡々と答えた。
ありがとう、でもママ、もう手遅れだよ、と。ママは死んだし、あいつもあたしが殺してしまったし、あたしもきっと死ぬだろうし、何もかも遅いんだよ、と。
そうね、と母は言った。そうね。
沈黙の中、ルーが何か考え事をしていた。何を思っているのだろう――?
耳鳴りの中、ざわめきが変化したのを感じた。叫び、惑う声。恐怖を覚えた声。目を開く。群衆はそこにある。しかし広場の通りの向こうから、見覚えのある姿が――。
ミセス・エヴァンズは、群衆を蹴散らし、蜘蛛のような足を暴力的に動かしながらこちらへと突進していた。混乱した人々は、叫びながらその進路を避けるように左右に割れていく。サフランへの道を。体が急に浮いた気がした。気がつくと、彼女はロープと共に木の台に落ちていた。数十秒ぶりの空気を吸うにも喉が困難を覚える。ぜいぜいと息をし、まばたきをする。どこもかしこも痛いが、それを感じる暇もなく、彼女は。
あたしは、目の前のルーを見ていた。何だか不思議と清々しい気分だ。まるで他人の人生を見るように見ていた自分の人生が、自分のものになったかのよう。あたしはあたしだ。他の誰のものでもない、あたし。誰かに人生を壊されるなんて、させるものか。
周りの信者や幹部たちに向けて銃を構えたルーは、あたしの首のロープを素早くナイフで切ると、あたしに向かって叫んだ。
「行こう、サフラン。ミセス・エヴァンズが迎えに来てる」
うなずく。それから全身の力を振り絞り、立ち上がる。ミセス・エヴァンズが牽引してきたミニトレーラーに向かう。ミニトレーラーはもう傷だらけだ。それでも、奇跡的に乗れる態勢になっている。踏み出した足元を、誰かが撃った。
「行くな」
ダニエルがあたしに叫んでいた。
「約束を忘れたか。行くな!」
必死の形相だった。全ての計画がおじゃんになりそうなことを、彼はよくわかっている。でも、スュン教幹部が銃で人を撃ったら、どうなるかわかってる?
ざわざわと、人々はダニエルを見つめながら口々につぶやいた。どうなっているんだ? 銃で撃ったぞ。神聖なヴァン聖人の長子であるダニエル様が。人を殺そうと。ダニエルはその声に動揺し、
「あの女は殺されなければならない。父を殺したんだ!」
と叫ぶ。人々はなおもささやく。彼はどうかしたのか? ヴァン聖人の息子らしくもなくうろたえて。ヴァン聖人は素晴らしかったのに、彼は……。
ルーがあたしに新しい銃を握らせた。つやつや光る、立派な拳銃。あたしはそれをダニエルに突きつける。彼は唖然としたあと顔を真っ赤にして怒り、銃をまたも向ける。
「計画が駄目になって残念だったね。約束を破ってごめんね! じゃあ」
あたしとルーは走り始めたミセス・エヴァンズに合わせてミニトレーラーに飛び乗った。ドアを閉じた瞬間、銃弾が何発かトレーラーやミセス・エヴァンズに当たるのがわかった。間に合ってよかった。地震が起きたかのような悲惨なトレーラー内部に体を落ち着け、マイクに向かって叫ぶ。
「ミセス・エヴァンズ、メキシコに向かって!」
彼女は先ほどと同じ速度で走り出した。ものすごい速さで通りを抜ける。観衆は恐怖を目に浮かべておろおろと逃げ惑う。あたしたちが怖いのだ。あたしはけらけら笑う。ルーは怒り心頭の様子であたしに言う。
「笑い事じゃないよ。あとちょっとで死ぬところだったじゃないか! 何で僕の荷物にあの懐中時計を入れてたんだよ。ヴァン聖人の葬儀があったからやっと君を助ける日程が組めたけど、この懐中時計がなかったら不可能だったよ」
あたしは笑いながら謝る。本当は死んでしまうからいらないと思ってルーの荷物に放り込んでいたのだけど、そんなことは言わずにただ笑う。
「それにどうしてメキシコなの? 国外逃亡してしばらく隠れようと思って?」
「ミセス・エヴァンズをウィアー大佐に会わせてあげるの! 決まってるでしょ」
あたしが答えると、ルーはやっと納得したかのように眉間のしわを解く。
「それってすごくいい考え! ミセス・エヴァンズも喜ぶね」
あたしはくすくす笑い、自分たちが街を抜け、シカゴの中からどんどん外に向かっていることを知る。ボロボロの古い建物ばかりのシカゴは、もう恐ろしくもなく、何の記憶も思い起こされない。
物思いにふけるルーの横顔を見る。浅黒い肌、キラキラと光る丸くて彫りの深い目、細い手足、繊細な指、ポニーテールにした長い髪、女の子の服。ジーンズからはボロボロのスニーカーが覗いていて、ああ、こんな歩きにくい靴であたしを助けに走って来てくれたのだと思う。
気づけばあたしはルーのかさかさの手を握っている。彼は驚いたようにあたしを見る。
「これであたしは公式な犯罪者だ」
「まあね」
ルーは首をすくめた。
「おまけに大言壮語を唱えて、復讐を果たしたのに無意味だった」
「そんなこともあるよ」
ルーはまっすぐにあたしを見つめ、あたしの次の言葉を待ち続ける。あたしは震えながら続ける。
「それでも、あたし、あんたと共に生きる。あんたと一緒にあんたの目的を果たして、あんたのために生きる。あんたとずっと生きて、トンボ婆みたいに長生きして、《冬眠者》が起きるころには地球上の人間全部に石をうつして、未来を全然違うものにするんだよ。みんなが赦し合って、理解し合って、心の安寧を得られる未来にさ。それをあんたと一緒にやりたい。あんたと一緒がいい。駄目?」
あたしはかすかな不安を感じながら彼に告白する。あたしが彼と愛し合うことはとても難しいだろう。こんな風に触れ合うことすらあたしは困難を感じるから。それに、この感情が恋愛感情なのか、それを越えた別の感情なのかもわからない。あたしはどうすればいいのかわからない。どう振舞うべきかもわからない。ただ、一緒にいたい。一緒に生きていきたい。
彼は答えた。
「そんなこと、訊く必要なんてないよ」
彼は笑っていた。嬉しそうに。この上なく幸せそうに。
「当たり前だろ? 僕は君のことが大好きなんだから!」
あたしは彼の手をぎゅっと握る。今、初めて本当に生きている実感がある気がする。あたしたちの旅はこれからだ。困難があり、別れがあり、過去から髪を引っ張って呼び止められることもあるだろう。でも、あたしは生きていける気がする。彼と、一緒に進んでいける気がする。
あたしと彼の旅は、ここから始まる。
《了》




