契約
霧雨が降っている。時折止み、湿った空気は彼女の顔を濡らす。サフランは一番近くのグラハム・ベルに歩み寄り、いつものように「こんにちは、アンノウン」と声をかけてくるその立方体の機械に、こう言った。
「アンノウンじゃない」
わかりました。それでは登録されている住所とお名前を教えてください。
「シカゴのアリス・グレイ・エヴァンズ」
サフランは一気にそう言った。不味い野菜ジュースを飲み干すかのような表情で。
お久しぶりです、アリス・グレイ・エヴァンズさん。どなたにご用ですか。
「シカゴのダニエル・グレイに」
わかりました。伝言の内容をお教えください。
「今夜、あんたに会いに行くから時間を見計らって出てきて、取引をしたい、って言ってよ」
わかりました。他にご用件はありませんか。
「ない」
ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています、アリス・グレイ・エヴァンズさん。
サフランはしゃがみこんだ。吐き気がしたが、すぐに上を向いてこらえた。
その家では、豪勢なパーティーが行われていた。シャンデリアの灯りが煌々と輝き、談笑する声、ワインを開ける音、乾杯の合図、小型犬がきゃんきゃんはしゃぐ声、などが響き渡る。豪華な刺繍入りのスュン教の衣装を着た男たちと、その妻子が笑みを浮かべ、明るく暖かい部屋の中で、焼きたてのパンや鶏肉と野菜をふんだんに使った今の時代にはありえないような料理を口に運んでいた。立食式のパーティーで、テーブルを島のようにして彼らは泳ぐように会話を楽しんでいる。
一番人を集めているのは初老の男だ。白い髭を短く整え、青い艶のある帽子を被っている。髪は長く、緩く続いた先で三つ編みに整えられ、紐できつく結んである。彼は暖炉のそばの椅子に座り、余裕のある笑みで若い男と談笑している。座っている男も、立っている男も、どちらも背が高く優雅な仕種だ。彼らは、親子だ。ダニエル・グレイは父と笑顔で話し、ヘンリー・グレイ――ヴァン聖人――は少し疲れた様子だ。気だるげに手を振るヘンリーに、ダニエルは大袈裟なまでの心配げな表情を作り、彼を一人にした。ダニエルはそのまま部屋を出て、バルコニーにそっとやって来た。
彼が最初にしたのは、紙で巻いた乾燥大麻に火を点けることだった。ポケットから小さなフィルターを出し、それを少し押し込むと、大きく吸って気だるげに白い煙を吐いた。紫煙はゆったりと広がり、そこにいつの間にか現れた彼女の周りで消えていった。ダニエルは微笑んだ。
「ルーに何をしたの?」
サフランは低い声で彼に訊いた。感情が摩耗したような声だ、と自分で思った。ダニエルは、ハッと煙を吐き出して笑い、言い放つ。
「あんなガキに、何を執着してる?」
サフランが抜いたナイフを喉に当てると、ダニエルは小さく口笛を鳴らし、
「どうやら私の妹はよほど暴力的に育ったらしい」
と笑う。そうだ。彼女は彼の妹だった。長子の彼と、末の娘の彼女。ダニエルは最初、彼女が妹であることに気づいていなかったようだが。サフランは殺気立ってナイフを近づける。ダニエルはくくっと笑い、
「彼はどうなったんだろうね。部下に渡したんで、知らないよ」
「調べな」
「いいけど……。きっと父と会ってるよ。父は石持ちの排除に熱心なんでね」
ヘンリー・グレイ? サフランは頭をくらくらさせる。ルーがあの男と?
「父に直接聞けばいい。父は何で石持ちにあんなに興味を持つんだろうね? 私にはよくわからない」
彼女はほとんど呼吸ができていない。短い呼吸が荒く繰り返される。
「で、取引って? それはこの情報と引き換えに何かをしてくれるっていうことかな?」
彼女は呼吸を落ち着ける。感情を元に戻そうと、何度も静かな感情を思い出そうと繰り返す。
「……なんてね。わかっているさ。グラハム・ベルの伝言を聞いたときから気づいてたよ。君は父を殺しに来た。理由は復讐だね。あのことは私の耳にも届いている」
サフランはぎゅっと顔をしかめた。その一言で、自分の身に起こったことが周知の事実だということがわかったからだ。
ダニエルは洗練された仕草で大麻を口に寄せた。
「父が死ぬと確かに私に有利だ」
ダニエルはフィルター越しに煙を吸い、細く吐いた。
「父を殺したら司祭の座がすぐに私の手に入るわけじゃない。推薦が必要だし、投票もある。知名度や一般教徒たちの信頼も吟味される。でも、私が司祭になったら権力だけでなく財産が手に入る。水力発電、地熱発電、太陽光発電、その他多くの電力機構は私のものだし、食料工場の長の任命権も私のものだ。金も入る。かつての時代と比べたら微々たるものだが、スュン教の財産の多くは私の管理下になる。それは私がずっと欲していたものだ」
ダニエルは黙った。サフランは彼から少し離れて暗がりにじっとたたずむ。そんな彼女に、彼は柔和に微笑む。
「私は財産を使って世の中をよくしようと思っているんだよ」
嘘だ、と思う。ヴァン聖人の時代だって、何もかもが一極集中だ。富は行きわたらず、欺瞞に疲れた人々はスュン教から去っている。心を満たしてくれるはずのスュン教の教義ですら疑念で汚れてしまっているのだ。
でも、ルーを助けて、――あの男を殺せるのなら何だっていい。
「明日の祭典のあと、ヴァン聖人を呼び出してほしい。その代わり――あんたはあたしに何だってしていい」
サフランは低い声で言った。ダニエルは微笑んだ。
「いいだろう。彼が死んだら悪政も去る。変わっていくよ、スュン教本部は」
サフランはゆっくりと後ろ向きに歩いて行く。誰かがバルコニーに近づいてきていた。
「ああ、妻だ。早く行ったほうがいい」
ダニエルが煙草を捨て、フィルターをポケットにしまいながら言うころには、サフランはバルコニーの柵を越えて去っていた。整えられた庭の植え込みの中に入ると、彼女は走り出した。
始まる! 彼女は頭の中で何度も繰り返し叫んだ。
冷たい雨がゆっくりと糸のように降り始めていた。




