恐慌
ミシガン湖は五大湖の一つだ。海のように大きい湖周辺の砂浜には、波が打ち寄せ、冷たい風が吹いている。身震いをしたサフランは、ルーと共にミシガン湖のすぐそばにある動物園跡にいた。自然な動物たちの暮らしを再現した、木々の植えられた広大な動物園だった場所に、動物は一頭もいない。ただ枯葉と共に放置された木々があるのみだ。どの動物も、人間たちと共に冷凍されてしまった。
シマウマエリアの前で待つ。あの夢の中で、ルーの意識はそう言っていた。シマウマがいたはずの広い平原を再現した場所は、荒れ果て、小鳥やリスの住処となっている。サフランは入り口近くの木の幹にもたれかかり、ルーを眺める。彼は手持無沙汰に突っ立って、少し曇った空を眺めたり、何もいない動物園を見渡したりする。キャップに収めた長い髪は、後ろの辺りで盛り上がっている。男物の黒い服は、彼に妙にそぐわない。
「僕らここで別れたとして、また会えるからね」
ルーが振り向いて言う。サフランはうなずき、そっけなく「そうだね」と答える。
「絶対に、あれを忘れないでよ。あれは大切にしないと」
サフランはもう一度うなずく。
「それから、コオロギクッキーバーの包み紙はちゃんと自分で処分するんだよ。そのままそこらに捨てちゃ駄目だ」
彼女は少し笑う。
「あと、君の歌声はすごくよかった。もう一度聴いてみたかったな」
彼女は奇妙な喜びに包まれた。昨晩の、初めて聴かせた彼女の歌声。あれが彼の印象に残っていたらしい。
「それからさ、……死んでほしくないよ。絶対に勝ってよ」
ルーの声がかすれるのに、サフランは微笑んだ。それから彼のところに歩いて行って、自然な動作で彼を抱き締めた。彼女にとって小柄な彼は、彼女の肩に鼻を埋め、彼女の体をぎゅっと抱いた。
「こんにちは。お邪魔だったかな」
近づいてきた人物に、サフランは思わずルーを突き飛ばして銃に手を触れた。しかし、その人物がルーの意識にあった顔にそっくりだったため、やめた。石を持つ者たちのシカゴでのリーダー、ハリスだ。ミルクチョコレート色の肌の、優しい顔をした男だ。
「やあ、ジョン」
ルーはよろけた体を立て直して、彼に挨拶をした。彼とハリスは握手を交わす。あの世界で出会ったきりで、実際に会うのは初めてなのだ。
「どうも。彼女、ちょっと乱暴かも。暴力を受けたりはしてない?」
冗談めかして言うハリスに、ルーは微笑む。
「彼女、ずっと優しかった。だから大丈夫だよ」
サフランはそれを聞いて胸がいっぱいになっていることに気づく。彼とはここでお別れなのだ。カンテラに照らされた夜も、焚火も、星空も、歌声も、夕暮れの乾いた山々も、ラベンダーの香りに包まれた部屋も、彼との思い出はここまで。一瞬、耐えられないほど辛く感じた。
「君も俺たちと一緒に来るべきだって彼は思ってるみたいだけど、どうなの?」
サフランに向き直ったハリスが彼女に尋ねるが、彼女の答えは決まっている。
「悪いけど用事があってね。終わったら行くよ」
ハリスはうなずき、それならとルーの肩に手を置く。ルーの表情が強張る。サフランになおも何かを言おうとするルーに、サフランは笑ってこう言った。
「ジェイク・ワン」
ルーが目を丸くする。初めて呼ばれた彼の本名。サフランはにっこりと笑って彼に手を振った。
「ありがとう」
ルーは泣きそうに見えた。名残惜し気に振り向きながら歩き、何度も立ち止まり、ハリスが促すとようやく前を向いて歩き出した。
「やれやれ、まるで今生の別れだな」
ハリスが肩をすくめ、ルーと歩いていく。段々見えなくなる。サフランは、茫然とそれを見守る。
銃声が響いた。
サフランが見ている前で、ハリスが倒れた。ルーが物陰に飛び込んだ。サフランは駆け出した。走って、走って――。ルーは誰かに追われていたのに、見当たらなくなった。ハリスが撃たれた足をかばいながら立ち上がり、息の上がったサフランの胸元を掴む。
「ジェイクのことは追わないほうがいい」
サフランはパニックを起こしたように息が上がっていた。
「彼は何とかする。隠れ家を知っているから。それより――」
足音が背後から聞こえた。スュン教の衣装を着た二人の男たちは、サフランを見るなり意外そうな顔をした。口笛を吹く者もいる。憎悪が、サフランを支配した。
彼女は、ワンピースの下から銃を取り出した。男たちが銃を撃つ前に二発、衝動的に撃った。それぞれ、頭と喉に当たった。倒れた男たちを、わけのわからない呪詛の声を上げながら何度も撃った。唖然とするハリスに向き直ると、彼女は震える声でこう言った。
「あ、あたしも行く。ルーを守る。守らなきゃ……」
彼は冷静な目つきでうなずき、彼女を隠れ家へと招いた。
地下街にある薄暗い隠れ家には、十数人の石を持つ人々がいた。サフランは彼らの中にルーを探した。若者も、ルーと同じくらいのティーンネイジャーもいる。けれどルーはいない。ハリスが仲間に手分けして彼を探させるが、夜になっても彼は見つからなかった。
サフランのパニックは、増した。彼女は自分の体が制御できなくなっていることに気づかなかった。最初に起こったのは体の震えで、何だかおかしい、としか思わなかった。それがやがて意識され、本格的な震えが彼女を襲った。肩を抱く。しゃがむ。それでも震えは収まらない。歯ががちがちと鳴る。指がわななく。そして唇が震え出したころに、彼女は前歯で下唇を傷つけた。震えは収まった。
「探してくる」
ハリスが彼女を止めようとした。けれど、彼女は取り憑かれたように歩き出す。そこに、一人の少女がやってきて、叫んだ。
「大変! ジェイクはダニエル・グレイと一緒にいたみたい」
彼女の時間が止まった。ダニエル・グレイ? あの? 呆然としたまま、彼女は隠れ家からふらふらと歩き出した。ハリスが横にやって来て何かを言うが、聞こえない。助けないと。守らないと。そればかりが口から出てくる。
そして彼女は夜の闇に駆け出した。




