和解
髪を切ったのが西海岸に向かう途中でよかった。トンボ婆がかなり嘆いただろうから。
ルーの言う「彼らの世界」を垣間見るあの夢が始まってよかった。それまで見ていた夢のせいで頭がおかしくなりそうだったから。
サフランは突然思い出したことを頭で反芻した。どうしてこんなことをまた考えているのだろう? こんなときに?
ルーは廃墟と化した道を歩くサフランの後ろから彼女を見つめる。彼は彼女に執着するティーンネイジャーの十何人目かだ。彼を送り届けてしまえばすべて終わりだ。彼女は心置きなくあの男を殺しに行ける。でも本当は、ルーのことが嫌いなわけではない。彼の考えが彼女をこの上なく相容れない気分にさせただけだ。本当は親切にしたいし、彼が目的を果たしたいと思っているのならできる範囲で協力したい。彼は彼女が幼いころ心を痛めたスュン教徒の犠牲になった者の生き残りなのだ。
彼とデビーの目的は単純だ。西海岸を中心に活動している彼らの、伝染性の石をできるだけ東にも広げること。彼らは仲間を増やそうとしているのだ。彼はサフランがその活動に加わればいいと思っている。生き延びて、彼と同じ目的に生きればいいと思っている。彼女は、体を捨てたくて仕方がないのに。
彼女の体は多くの負の記憶を刻みつけられていた。頭の中よりも明確にある、体の記憶。彼女はそれを消し去りたい。
「お祭りかな」
ルーがつぶやいた。道の先に、紐で束ねた緑色の草をまとめて運ぶ者たちがいる。彼らはスュン教徒らしい格好をした、腕章をつけた男たちで、サフランの姿を見つけると微笑んで挨拶をした。サフランもそうする。彼らは香りの強い草を肩に載せて通りを運んで行く。
「明日は、ヴァン聖人の誕生日だよ。ヴァン記念日っていうんだって」
薄ら笑いを浮かべたサフランの言葉に、ルーが振り向いて彼女を見つめる。
「そんな日に彼を殺したいの? 危険が増すだろ?」
ルーのすがるような目を、サフランは振り払う。
「大丈夫だよ」
サフランはつかつかと歩く。ルーはそれに慌ててついてくる。シカゴで一番賑わっているのはヴァン聖人がいるスュン教本部だ。先ほどの男たちはそこを目指して向かっていた。本部はここから近い。
男たちが歩いていったときに鼻に残った匂い。嫌な匂いだ。何かイベントがあるたびに、あの香草たちは専用の畑から刈り取られてくる。それは彼女の香りの記憶として残っている。昔を思い出させる。彼女がまだ幼かったころの。
キャンドル、香草の焚火、撒かれた花びら。華やかな行列。あのころは単純に喜んでいた。あの香り、あの高揚感、人々の熱狂。通りを歩く、ヴァン聖人。大勢が手を振る。あの人があたしのお父さんなの? 幼い彼女が隣の人物に訊く。ええそうよ。その人はこの上なく優しい声で言う。
何もかも放ったらかしにして、彼女は行ってしまった。
サフランはつかつかと歩く。ビル群は解体されることなく残っている。そこかしこに人の営みも見える。工場も、スュン教の気配も。狭い道では窓から窓に渡された紐に白いシーツが垂れている。子供の洋服、男物の作業服。以前はこんな通りを歩くことはなかったな、と思う。一般のスュン教徒の地区だから相応しくないと、彼女は許してくれなかった。トンボ婆もそれに従い、彼女を連れ出すときも広場の近くやミシガン湖周辺の気持ちのいい水辺にしか行かせてくれなかった。
彼女のことばかり考えてしまう。
「サフラン、僕さ」
後ろからルーの声が聞こえてきた。
「君に恩返しをするよ。きっとね」
サフランはちらりと彼を見る。真剣な顔だった。彼女はまた前を見た。彼にできることは、彼女を支えることくらいだ。
彼女はずっと彼に支えられてきた。痩せて背の低い彼が彼女にとって脅威でないというのも確かだが、彼の穏やかで人のいい態度に、ずっと救われてきたのだ。彼女のために怒る、彼女のために悲しむ彼に、彼女はずっと助けられてきた。
「ありがと」
サフランは、はっきりとした声で、前を向いたまま答えた。




