消えろ、アリス・グレイ・エヴァンズ
ミズーリ川のカーブ地点を目指し、俺たちはおんぼろのオープンカーで移動した。俺がひそかに取っておいたガソリンで走るこの車は、二〇八二年製だ。電気自動車は充電という点において今の時代では使用が難しいので、動力については給油さえできればいいガソリン車はとてもありがたい存在だ。この辺りは森が続き、ミズーリ川も森の中をゆったりと流れている。舗装してあったはずの道は凸凹になっていて、当然ながら車が揺れる。アリスはいちいち大騒ぎをしながらはしゃいだ。俺も笑う。ちょっとしたドライブ気分だ。
俺たちは時折ここに通って銃を撃つ練習をしていた。もちろん俺が教え、アリスが撃つ。狙った木を撃ったり、的を作って撃ったりしているうちに、彼女はたちまち上手くなった。俺よりも上手いかもしれない。一度などは川の中の魚を撃ち抜いて、魚が浮き上がって流れていった。かなり筋がいい。ナイフも、彼女は思い切り動かすことができる。模擬ナイフでの接近戦も、彼女は数ヶ月訓練して俺の懐に入ってナイフを突きつけるほどになった。
はっきり言って残念だった。彼女に全く戦いの才能がなかったらよかったのに。そしたら、彼女は危険なことを思いついたりしないのに。
一通り訓練を終え、俺たちは汗みずくで川沿いの地面にあおむけになっていた。彼女は荒く息をしている。汗が水蒸気として立ち上っている。早朝の森だった。涼しい風が俺たちの高まった体温を冷やした。小鳥が楽しげにさえずっていた。穏やかな時間だ。
彼女の胸が上下していた。目を閉じ、カールした睫毛が濡れたように光っていた。俺は体を起こした。彼女は俺を横目に見つめ、俺が彼女にキスしようとすると起き上がった。
「……キスもだめ?」
俺が訊くと、彼女は首を振った。それから俺の頬にキスをした。俺は彼女を抱き締めた。顔中にキスをする。それから俺は、彼女のウエストに手を添えた。彼女は嫌がる素振りをした。俺は体を引き、やめようとする。すると彼女は追いすがるように俺の身体に抱き着いた。
彼女の服を脱がそうとすると、彼女は自分で脱いだ。何だか俺に脱がされるのが嫌みたいだった。彼女はささやかな乳房をしていた。俺が自分で服を脱いで、彼女の上半身を抱く。たちまち彼女は大きく震え出した。どうしたんだろう? 彼女の顔を見る。青ざめている。
「大丈夫?」
「いいの。続けて」
俺は彼女の緩やかなズボンを脱がせようとした。彼女はやはり自分で脱いだ。下着姿になっている。彼女自身の香りが広がる。俺は思わず彼女を抱き締める。彼女にキスをする。しかし、彼女は甲高い声で叫んだ。
「ごめん、ネッド。できない」
体を離すと、彼女は泣いていた。今までに見たことがないほど泣きじゃくって、俺に何度も謝った。俺は彼女をなだめながら彼女の衣服を彼女にかけてやった。俺自身も服を着て――おそらく俺の体の反応も恐怖の一因だっただろうから――彼女から離れた。俺が離れたのを確認し、アリスは泣きながら服を着た。多分、彼女はひどく惨めだ。俺とは比べ物にならないくらい。
「アリス」
「ごめん、別れよう」
彼女の言葉に驚いた。そんなことまでしなくていい。ゆっくりと関係を進めたら、いつかは俺とセックスできるかもしれない。そう説明したけれど、彼女は本気のようだった。
「ネッド、別れよう」
俺は奈落の底に叩き落とされた。でも、何も言えなかった。彼女がそう考えた理由はわかりすぎるほどだったから。
「わかった」
俺はできるだけあっさりと聞こえる声で答えた。彼女はまだ泣いていた。
俺たちは恋人同士であることをやめた。アリスは段々一人で訓練に向かうようになった。彼女はどんどん強くなり、眼光が鋭くなる。俺はそれを見ていることしかできなかった。彼女が何を目指すのか、考えないようにしていたけれど、どう考えても彼女はいつか一人の人間を殺そうとしていた。
だから、西海岸に向かう、そこで仕事を始める、と聞いたときはホッとした。そこならまだマシだ。
「何でも配達する、配達人になる。ネッドと立派な牽引車を捕まえてきたからね」
ミニトレーラーは俺がストックしていた品だ。彼女が牽引車と呼んでいるのは、戦時中の物資輸送ロボットだ。今は俺のガレージに落ち着いている。
「あんたはどこにも行かなくていい。あたしと一緒にいればいい」
トンボ婆が感情的な声を出す。彼女はずっとアリスが家を出ることを反対していた。アリスはトンボ婆を抱き締め、こう言う。
「あたしはいつまでもみんなのお姫様じゃいられない。いつかは大人になるんだよ。トンボ婆だって長生きだけどいつかいなくなるかもしれない。少しは自分で生きてみるべきでしょ? あたしはどうにかうまくやってくから、心配しないで」
トンボ婆は、わっと泣き出した。大声で泣くのは知っていたが、目の前で見るのは初めてで驚いた。同時に突然俺まで悲しくなってきた。サリヴァンさん、オーキッド、ローズマリーを抱いたラベンダーも、しんみりとトンボ婆を見ている。あたしが育てて、あたしが世話して、かわいいアリスが、出て行って危険なところに、とわめくトンボ婆は、みんなの分まで泣いているかのようだった。アリスは泣かなかった。あの森での出来事以来、彼女は泣かない。
「みんな。あたし、名前変えるよ」
アリスは言った。トンボ婆がぴたっと泣くのをやめた。アリスを見ると、彼女は晴れ晴れとした顔でこう言った。
「あたしは今日からサフラン。ファミリーネームなしのサフランだよ。今度からそう呼んで」
トンボ婆が悲しそうにアリスを見た。サフランになってしまったアリスは、過去を全て捨てたように見えた。
***
トンボ婆は一日で小さな靴下をたくさん作り、談話室の壁に紐で吊るして飾った。何の意味があるのかしばらくわからなかったが、トンボ婆の視線が何につけてもそこに行くことに気づいてから、ようやくわかった。あれはアリスのための祈りを意味する飾りだ。小さなアリスのことを思いながら今のアリスの無事を祈っている。それに気づき、胸がいっぱいになった。
俺はさっき見つけたアリスの日記を手にしている。繊維を溶かして作り直した不格好な現代のノートに、彼女は日記をつけていた。このノートはトンボ婆がいたロッキングチェアの背もたれに寄りかかっていた。トンボ婆が忘れていったのだろう。思わず開いて読んで、ショックでソファーに倒れ込んでしまった。
アリスはこう書いていた。
「めそめそしているアリス、死にたいと思っているアリス、弱いアリス、早く死んじまえ! あたしはあんたをやめて新しい自分になる。強いサフランに。
あんたがあいつにレイプされた? それが何だ。今の時代にはよくあることだよ。あんたは弱い。
あたしが新しいあんただ。消えろ、アリス・グレイ・エヴァンズ!」
日記を読み進めると、アリスは幻覚のような夢を見ていた。大勢の世話係が彼女のために様々なものを用意している。新しい洋服、靴下、靴、体に塗る保湿用オイル。彼女たちは全て動物の頭をしていて、豚、牛、熊、鹿、兎と多岐にわたり、一人はジャクリーヌの頭をしている。白い縮れた毛の、耳を垂らしたプードル系のジャクリーヌ。彼女はアリスをじっと見つめる。責めるような目で、見つめる。あたしが助けてやったのに、あんたはまだめそめそしてるの? と訴えかける。
次の瞬間には、彼女が昔読んだ『赤い靴』の少女の靴を履いた足がタップダンスを踏む。切断された断面を晒し、彼女を呼びたてるように。アリスは彼女の足を追いかける。走りついた場所は白い砂漠だ。巨大な紫水晶がたくさん生えた迷路のような砂漠をどこまでも歩いて行くと、洞窟に誘い込まれ、気づくといつの間にかあの部屋にいる。アリスが監禁された部屋だ。そこは美しいしつらえの書斎で、彼女は怯えて立ち尽くす。後ろのドアが開く。そこに、あの男が。
男の部屋にある何も活けていないガラスの花瓶の中で、人魚がくすくす笑う。男はだんだん近づいてくる。笑みを浮かべて。カラフルな蛍光ピンクの蛙が躍り出る。背中には「A」の飾り文字が。男が一歩近づくごとにアルファベットの蛙が増えていく。「L」「I」「C」「E」「G」「R」「A」「Y」「E」「V」「A」「N」「S」――アリス・グレイ・エヴァンズ。男の手が震えるアリスの肌に届くころには、彼女の視界は彼女の名前を示す蛙たちで埋め尽くされて、何も見えなくなる……。
男はサフランの父、ヴァン聖人――ヘンリー・グレイだった。




