失言
アリスは二、三日部屋に引きこもった。彼女の感情を傷つけてしまったのかもしれない。嫌なことを思い出させただろうから。そう思っていたが、その間のトンボ婆の様子は今までと違い、明るい兆しを予感させた。いつも厳しい表情のトンボ婆だが、アリスのこもる部屋から出て来た時折笑みを浮かべていたからだ。俺はトンボ婆にアリスの様子を訊いた。トンボ婆は、「あんたかい」と目を細めて俺を見た。そこに何の意図があるのか、見通せない。
「アリスはあんたのことが気に入ったようだよ。じきに部屋から出てくるようになるだろう」
面食らっていると、トンボ婆は、ありがとう、とだけ言ってアリスが終えた食事をキッチンに持って行った。意味が分からなかった。それでも、アリスが悪い状態でないことは嬉しい。
階段の上からアリスがこちらを見ていた。覗き込むような態勢で、こちらに見つからないようにしていたようだった。目が合うと、さっと隠れた。俺は右手を上げていて、その手のやり場に困り、ジーンズのポケットに突っ込んでそのままそこを去った。
部屋から出るようになったアリスは、俺に夢中になっていた。ガレージで仕事をしていると話しかけてくる。ずっと、日が暮れるまで。俺のことを聞きたがる。俺が話すとくすくす笑って応える。俺自身、彼女のことがすごく好きだった。彼女はそれまでとは大違いの愛らしい笑みを浮かべて俺のことを見つめていたし、すっきりした手足も、その動作も、彼女の優雅さをたたえていた。例えば彼女はハーブティーを飲むときの手の動きが蝶のようだ。指が流れるようにカップを持つ形になり、実際にカップを持つと少し重そうにゆっくりと動く。カップは形のいい口元に運ばれ、彼女は微笑みながらお茶を飲む。何もかも、彼女の魅力に繋がっていた。
「ねえネッド。世界が終わるときは誰といたい?」
アリスはよくこういう質問をした。ガレージで二人きりのときに。俺はいつものように電化製品や、時には古い家具を直しながら返事をする。夕焼けがきれいだ。俺の前に広がる、しゃがんだアリスを含んだ夕景。
「そういう質問はよせよ。後ろ向きだと思う」
俺がはぐらかすようにそう言うと、アリスは不満そうに口をへの字にする。彼女は大人びているが、十四歳で、まだ子供でいる時間も残っているのだ、とそのとき思い出す。
「ネッドはあたしに何でも答えてくれていいと思う」
「何だそれ」
俺は笑う。俺の眼鏡は機械油やら傷やらでボロボロで、俺自身無精ひげのままで彼女の前に座っている。こんな俺に夢中の彼女は、おそらく――。
「ああ、多分お前といるだろうな」
俺が不意に答えると、アリスはぽかんとし、次に真っ赤になった。目を逸らし、まばたきの回数が増える。やっぱり。彼女は俺のことが好きなんだ。俺自身、遠くまで走り切ったときのような、それを何倍にもしたかのような嬉しさを感じていた。
「ね、あんたはあたしの恋人ってことにしていい?」
子供っぽい質問だ。俺はアリスに手を伸ばした。彼女の腕を掴み、背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。機械油で臭くてたまらない俺の身体に、彼女を押しつける。
「当たり前だろ」
俺は明るい声を出した。彼女は何も言わなかった。
そのときの彼女の表情を、見ることができればよかった。今思えば彼女は、体が硬直していた。俺の抱擁を、喜んではいなかった。
俺たちはゆっくりと互いの人生を絡め合った。俺の孤児としての人生、暴力が多くを占める人生に、彼女の孤独でささやかな、突然地獄に変わった人生がロープのように絡み合う。不思議と波風は立たなかった。彼女はすぐに拗ねるけれど、それはかわいらしい範疇だし、俺が彼女に本気で怒ることなんてなかった。一度だけ感情をぶつけたのは彼女が十五歳のときだ。彼女は何かがきっかけでフラッシュバックしたのか、また部屋から出なくなった。そろそろ何かを始めようとしていたタイミングだった。いつまでもこの家に閉じこもっているわけにはいかない。彼女だって、何かの仕事を始めなければならなかった。
いつまでも部屋から出ず、すすり泣きの声ばかりの彼女のことが心配でならなかった。俺はトンボ婆と共に部屋の前に立ってノックをし、軽く声をかけていた。
「アリス、お前は悪くない。悪くないから、泣くなよ」
俺はアリスが泣くのがどうしても耐えられない。俺が悪いことをしたような気になり、謝りそうにもなる。でも、すすり泣きは止まらない。
「アリス、俺がお前を守るから、一生守るから、だから泣いたりしないでくれよ」
アリスは嗚咽を漏らした。俺は何かまずいことを言ったのだろうか? 俺はただ闇雲に大きな声を出す。
「アリス、俺は君を愛してる」
部屋は静かになった。トンボ婆が俺の腕を叩き、下に行くように言う。その表情は読み取れない。
しかし、ドアが開いた。アリスはそこにいた。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、俺を見ていた。幽霊のような表情だが、泣き腫らした顔は赤い。
「……じゃあ、戦い方、教えて」
彼女は袖で鼻水を拭きながら言った。聞き間違いをしたのかと思った。彼女に戦い方を教える?
「ネッドは人を殺したことあるんでしょ? 戦い方を教わったことあるんでしょ? 教えて」
確かに、俺は昔麻薬組織の使い走りで、一通りナイフや銃の使い方を仕込まれた。体術も。必要があるときに二人ほど殺してしまったこともある。この時代には命は軽いので彼女はそれをどうこう思っているわけではないだろう。でも、どうして知っているのだろう、と思うが、恐らくオーキッドだ。彼女はこのところ家にいるメンバーととても仲良くしているから。
「危険だよ! あんたはそんなことをしなくていい!」
トンボ婆が怒った顔でアリスをとがめる。彼女は気にせず俺を見上げ続ける。涙の膜が張った目は、絶望で暗く光っている。
「それで、どうするつもりなんだ?」
俺が訊くと、彼女はそのままの表情で恐らく嘘をついた。
「護身術」
わかった、と俺は答えた。彼女は鼻をすすりながら部屋に戻っていった。トンボ婆はただただ俺に怒っている。アリスにそんなものは必要ない、彼女は花よ蝶よと育てられたのだから、と。
でも、彼女が求めるなら俺は教えたい。




