アリスの涙
一日目、二日目は、必要なとき以外アリスが部屋から出てくることもなかった。たまに見かけるときは必ずトンボが一緒にいたし、アリスは泣き腫らした顔を俺から逸らした。彼女たちは気分転換と称して晴れた日には出かけた。金髪を輝かせながら憂鬱な顔でトンボと歩くアリスは、一生気分が晴れることがないと信じ切っている、自殺志願者の表情をしていた。
俺は自殺志願者を何人か見たことがある。彼らは皆生活苦に苦しむアウトサイダーであり、非スュン教徒だった。スュン教徒の規則正しい生活や、表と裏の顔のある社会から、彼らは外れて行ってしまったまま戻ることができていなかった。そうすると生まれる、「死んでしまえればいい」という考えが彼らを蝕んでいく。氷の彫像がいつの間にか無形の水となって地面に溶けて消えてしまうように、この世から自分という有形物が消えてしまえばいいと思っている。アリスは彼らと同じ顔をしていた。
でも、アリスはどう見てもつい最近までスュン教徒だっただろう。彼女の服装や気品ある仕草は、有力なスュン教徒の関係者だと思わせた。それに、アリスはアウトサイダーたちとは違い、今の社会に完全に適応できないタイプの少女ではないと思えた。
以前の彼女はおそらく今とは全く違っただろう。どんなふうに? 穏やかだったか? 活発だったか? もしかしたら大きな口を開けて笑っていたかもしれない。でも、俺が知る彼女は変わってしまったあとの彼女で、知りようがないのだった。
……今は忘れるんだよ、あんたは価値ある人間だ、そう信じていればいい、あたしだってそう思ってるよ……。そう話しているトンボの声が聞こえ、俺は修理工場にしているサリヴァンさんの家のガレージから庭を眺めた。サリヴァンさんは電気を使うことをよしとしないが、俺の仕事には必要なので電線からこっそり電気を引いている。どうでもいいような照明器具や、こっちだってほしくなるような小型発電機などが持ち込まれ、俺は仕事に困ることがない。その時も何のために使うのかわからないサイレンを鳴らす装置の修理をしていて、たまたま静かに作業していた。……あんたは美しいじゃないか、これからも何だってできるよ……。
「美しいって言うのはやめて!」
不意にアリスの感情の高ぶった声がした。驚いて顔を上げると、アリスは泣きながら耳を塞いでいた。トンボがおろおろと体をさすってやっている。
「美しいって言われるの、大っ嫌い! あたしの身体に価値があるって思わされる」
「わかった、もう言わない。アリス、ネッドが見ているよ。やめよう」
トンボが俺を指してアリスをなだめた。アリスは俺を見た。バイオレットブルーの瞳で。その目には恐怖が浮かんでいた。たちまち顔を硬直させ、アリスは走り出した。トンボが痛めているらしいひざをかばいながら追いかける。そのままアリスは家の中に入った。ドアの、こちらをシャットアウトする音が響く。
アリスの事情がわかってきた。アリスは俺のことが怖い。その理由に思いを馳せると、とても悲しくなってきた。跪いてしばらく考えを巡らせた。できることはないのだけれど、それでも何かをしたくなってしまう。これは彼女が美しいからか。彼女に惹かれているからそういう特別なことを考えてしまうのか。多分そうだ。でも、彼女の美しさを、彼女が憎むべきものと思っているのは耐えがたい哀れみを感じさせた。これからもあるだろうものを、彼女は憎悪し、引き剥がしたい敵のように感じているのだ。
俺は彼女に何かをしてあげたかった。
ひと月が過ぎると、アリスはラベンダーやローズマリーと慣れ、小さく笑顔を見せるようになっていた。食事の席やふとしたときにそれは見られた。
トンボもつきっきりではなくなり、料理や掃除、洗濯を一手に担うようになっていた。皆が彼女をトンボ婆と呼んだ。彼女の豪快な態度、気難しさ、情の深さは誰もが知るところとなっていたからだ。
トンボ婆を褒めると、彼女は、当たり前だ、という態度を取る。こんな単純な刺繡は簡単にできる、掃除も長生きしているから何が汚れやすく、どの汚れに何が効くか知っている、と謙遜なのか照れなのかよくわからないことを言う。一番奇妙なのは彼女が自分を二百歳だと言っていることだった。冗談を言うタイプでもないのに当たり前のように、二百年も生きていれば誰だってできる、あたしは百歳のころには何だってできるようになっていた、と言うのだ。
「トンボ婆、嘘ついてんのかな。それとも呆けてる?」
ローズマリーのためのレースを編んでいるトンボ婆の手前で、オーキッドが俺にささやく。俺は首を傾げ、結論を出せない。そうしていると、アリスが遠くから「本当だよ」と言った。驚いた。彼女が俺たちに話しかけるのは始めてだ。彼女は硬直したような顔で、上目遣いに、
「トンボ婆は長生きなんだよ。冷凍睡眠してる《冬眠者》たちの中には百歳とか百五十歳くらいの人がいたんだって。昔の人たちは長生きだったんだよ。長生きできる薬も、医療措置もあったって」
と言った。オーキッドが嬉しそうに彼女に近寄ると、彼女は身を引く。トンボ婆が鋭い目でオーキッドを睨み、彼はすぐにやめたが。
「トンボ婆は冷凍睡眠が始まる前から生きてるってことか。俺たちの時代には珍しいよな」
気まずそうに彼が言うと、トンボ婆が眼鏡もなしにすいすいと丸いレースを編みながら、「全くいいことはなかったけどね」と答えた。
「あたしの生まれた時代は戦争ばかりでいいことなんてなかった。中国とロシアが武力で周辺国を取り込んだと思ったら、中東とアフリカで小さな戦争がいくつも起きて、ついにはメキシコとアメリカの戦争……。核だって使われた。東海岸には緑化装置をもってしても未だに環境が回復していない地域があるだろう? 柄じゃないと思われるかもしれないけどね、二〇四〇年代からあたしはニューヨークで小さなレストランをやってた。それもおじゃんさ」
トンボ婆の言うニューヨークと地名が、アメリカで二番目に核爆弾を落とされた都市だとしか知らなかったので黙って聞いていたら、トンボ婆が自ら補足した。
「ニューヨークはね、当時最も発展した都市の一つだよ。今じゃ信じられないけどね」
イメージが難しかった。俺たちにはこの時代しかなく、トンボ婆の時代が想像できない。資料のようなものはないし、俺は歴史の本なんて全く読むことができないからだ。
「全く長生きするとろくなことがないよ」
トンボ婆の声が少し感傷的になった。隣に座っていたアリスが彼女を抱き締めた。トンボ婆が抱き返す。それからトンボ婆は、少し気分が晴れたらしい顔で、
「アリス、あんたに出会えたのはいいことだよ」
と言った。こちらに向いているアリスの顔は、無表情になった。
「アリス、きれいだよな」
修理工場で仕事をしていると、いつものようににやついた顔でやってきたオーキッドが言った。俺は彼を睨みつけ、やめろよ、と言った。
「彼女、そう言われるのが嫌いらしいよ」
「違うよ、俺が言ってるのはお前の感情だよ。きれいだと思ってるんだろ?」
つまり俺が彼女のことを好きかということだ。それは決まっている。俺だって自覚している。
「俺の感情に踏み込むな」
俺は不機嫌に仕事を続行した。このところずっと取りかかっている小型発電機の修理だ。細かい部分を洗浄し、ガソリンが漏れる個所を念入りに塞ぐ。どうしようもない部分は、元々持っていたゴムチューブにちょうどいいものがあったので、ガソリンを通す管としてはめ込む。
「お前はいつも彼女を目で追ってるぜ。みんな知ってるんじゃないか?」
オーキッドを無視し、黙って作業をする。あとはバラした部品を組み立てるだけだ。
「じゃあ、俺は仕事に行く」
オーキッドは配達員の仕事をしている。俺は手だけ上げ、仕事を続けた。
次の瞬間、影が差した。オーキッドだろう。
「しつこいぞ」
見上げると、彼女がいた。アリスだ。俺の荒い口調に少し身を引くが、物珍しげに俺の仕事場を見つめている。俺は口ごもり、また作業に戻った。
「これが仕事なの?」
アリスの声は平坦だった。うなずくと、彼女は一つ一つの部品置き場やまだ途中のもの、依頼されただけのものを見て回った。
「臭いね。ガソリン?」
俺はうなずき、
「この発電機から匂うんだろう。大昔のガソリンを使った発電機なんだ」
ふうん、とアリスは俺の手元を眺めた。
「ガソリンってすぐ死ねる?」
俺は黙った。
「ガソリンは火をつけたらすぐ燃え上がるって聞いた。灯油より強力だって。でも派手なだけですぐは死ねないかもね。死ねるかどうかは灯油と同じくらいかもしれない。周りに迷惑かけるし」
彼女は淡々と言った。それから俺の顔を見て口を閉じた。俺は泣いていた。
「何で泣くの? あんたは会ったばかりの……そう、他人じゃない? あたしに同情してるの? すぐにやめてくれない? あたしは死にたいだけなんだから」
「すぐにやめてくれ」俺の声は涙交じりで、高ぶっていた。「死ぬ方法を考えるのをすぐにやめてくれよ。俺は君が死にたいと思うのがいたたまれない。俺は、君に生きてほしい」
アリスは突っ立ったまま黙っていた。その表情は冷酷なまでに静かだった。
「あたしに好意を持ってくれてありがとう」アリスは酷薄な笑みを浮かべた。「でも、それはあたしにとって道で通りすがりに口笛を吹かれるのと同じ、胸やお尻を知らない人にじろじろと見られるのと同じ、勝手に好きになってつきまとってくるティーンネイジャーの男の子と同じ。好かれるのは迷惑なんだ」
「俺はただ、君に幸せになってほしい」
アリスは驚いた顔をした。
「君に笑っていてほしい」
涙は止まらなくて、どんどん溢れた。俺は嗚咽を漏らした。アリスは唇を舐めた。何かを告白する覚悟を持ったようだった。
「ネッド」
アリスは俺をじっと見つめた。目は、宝石のように力強く光り輝いていた。
「もしあたしが、――――としても、あんたはそう思ってくれる?」
彼女の言葉に涙が止まった。信じられなかった。彼女が通り抜けてきた残酷な出来事に、俺は驚くことしかできなかった。
俺はうなずいた。「もちろんだ」
アリスの表情が、次第に形を変えていく。いかめしい、残酷な表情を保とうとしているのに、目元は痙攣し、唇は震えている。彼女は、その場で泣き崩れた。




