アリスの記憶
トンボ婆は今日も元気がない。サフランが行ってしまってからずっとこうだ。いつもようにすえた匂いのする厚着の老女は、暖炉のそばのロッキングチェアに深く座り、ゆらゆらと揺れながら古いセーターをほどいて作った毛糸玉で靴下を編んでいる。もう春なのに、毛糸の靴下か。トンボ婆が急に老け込んだように見えるから、少し心配になった。
ふと、トンボ婆が低いだみ声で歌い出す。「ハッシュ・リトル・ベイビー」だ。伝統的な子守歌。大丈夫か。俺だってサフランが心配だ。気が狂いそうになるときだってある。でも、トンボ婆がこんな風だと、そればかり言ってられない。
トンボ婆の後ろに立つと、彼女はぴたりと歌をやめた。黙々と靴下を編み続ける。色は愛らしいミルキーピンクだ。誰のために編んでいるのだろう。近所の子供のため? ローズマリーのため? ローズマリーのためである可能性は高いのに、そうではない気がする。
「サフランって名前は、いい名前じゃないか? ネッド」
どきっとして見下ろすと、トンボ婆はこちらを少しも見ずに編みあがった靴下をテーブルに放り投げた。そのまま別の毛糸玉を手に取り、編み始める。色はレモンイエローだ。
「存在感ある、香りの強い香辛料であり、ハーブとして人間の薬になる。おまけに何もかも黄色く染めてしまって……。まさにあの子が目指す存在じゃないか」
俺はトンボ婆のそばのソファーに腰かけ、しばらく黙ってから答えた。
「俺も、そう思う。まさにサフランという名前はあいつの理想だ」
あいつそのものだとは言わない。あいつはそれを目指していても、それそのものではない。サフランの本質は、どうなっても本名であるアリス・グレイ・エヴァンズのままだ。
「あの子はね、繊細だった。誰も彼もに哀れみをかけた。声は大きいし、誰にでも声をかけられるけれど、内心は世界中がうまく調和していないことを嘆いていた。明るいように見えるけれどそう振舞っているだけだ。あの子は、ただの優しい子だ」
俺はうなずく。そうしながらトンボ婆の手の甲をさする。トンボ婆の編み物はいつのまにか止まっていた。
「アリスは、どうやったら幸せになれるんだろうね」
俺もずっと考えてきた。サフランが、――アリスが行ってしまってから。俺にできたこと、できなかったこと、そんなことばかり考える。
「この子守歌はね、あたしがあの子に歌ってあげたものだよ」
トンボ婆は低い声で「ハッシュ・リトル・ベイビー」をもう一度歌った。
「あたしはあの子のばあやだったからね」
トンボ婆の目は、遠くを眺めていた。思い出の日々に浸っているようだった。それからまた靴下を編み始めた。子供用の小さな靴下は、三角に組まれた編み棒の中で長くなっていく。
俺はその場から離れた。俺もトンボ婆のように、一人の世界でアリスのことを考えたかったからだ。
あいつのことを、放っておいて、自由にさせて、本当によかったのか? ミセス・エヴァンズのことは、破壊するべきではなかったのか? そもそもミセス・エヴァンズはアリスにとって意味のある存在だから、俺が彼女を破壊したら、アリスはどう思うだろう?
***
雨の中、アリスはこの家にやって来た。少しずつ暑くなってきた春の、久しぶりの肌寒い日のことだ。
俺は孤児だったから、あちこちで使い走りにされて、十六歳でサリヴァンさんに招かれてこの家で修理工場を始めるまでは、かなりひねたティーンネイジャーだった。スュン教なんて信じないし、入信を求められても相手をボコボコにして追い返しているくらいだったから、サリヴァンさんのことも元司祭というだけで信用していなかった。それが一年で更生して、丁寧な言葉遣いや気遣いができるようになったのだから、サリヴァンさんの人柄は大したものだ。
サリヴァンさんは新しい女の子がやって来ると言った。今もそのままの談話室でのことだ。オーキッドは口笛を吹いた。女の子が大好きなのだ。
「君たちに言っておきたいことがある」
サリヴァンさんが静かな声で言った。この声にはどんなに俺たちが浮き立っていてもスュン教信者が祈りの言葉を聴いているときのように落ち着かせる効果がある。
「新しい女の子は、かなり傷ついている。オーキッドもネッドも、あまり構わないようにしてほしい」
「ラベンダーたちは?」
茶化すようにオーキッドが言った。サリヴァンさんは深刻な顔のまま、
「ラベンダーとローズマリーは、きっと女の子も気に入ってくれると思う。でも、そっと接してやってくれ」
とため息をつく。ラベンダーは産んだばかりのローズマリーを抱きながらうなずいた。つまり男どもは近づくなというわけか。気に食わない。
「どんな男嫌いが来るんだろ。きっとすごいブスだぜ」
オーキッドが笑い、俺はよせよと顔をしかめる。ラベンダーがオーキッドをにらむし、サリヴァンさんが悲しそうにするのでそれは正解だとわかった。
ドアのノッカーの音がした。サリヴァンさんがハッとしたように顔を玄関のほうに向け、歩いて行く。俺とオーキッドもぞろぞろついて行き、その女の子とやらの顔を見ようと後ろから覗き込んだ。
見えたのはしわくちゃの婆さんだ。オーキッドが吹き出しそうになっているのに気づいて足を蹴る。
「アリス、お入り。濡れて寒いだろう」
婆さんは優しく低い声で後ろにいる誰かに声をかけた。その子はゆっくりと入ってきた。菫色のレインコートのフードを深くかぶった背の高い女の子は、玄関の中に入るとうつむきながらフードを取った。編み上げた金髪、バイオレットブルーの瞳、甘ったるいミドルティーンの顔立ち……。横目で見るとオーキッドが口をあんぐり開けている。女の子は俺たちを見ると目を伏せた。
「オーキッドとネッドは戻って。彼女たちを部屋に案内するから」
サリヴァンさんが暗に俺たちを追い払いにかかった。オーキッドは粘ったけれど、俺が無理矢理引っ張って談話室に戻した。オーキッドは俺よりも五インチは背が低い。俺が襟を引っ張れば親猫が子猫を運ぶように簡単だ。
彼女はとても美しかった。ただ、そこに差した陰は底知れない悲しみを感じさせた。
「この子はアリス。今日からここで生活する。この人はトンボさん。不愛想だけど優しい人だから怖がらないで」
談話室で紹介されたアリスは、トンボにぴったりとつき添われて立ち尽くしていた。サリヴァンさんの説明がいつもより簡単だ。二人自身の挨拶もない。
「アリスは疲れてるんだ。悪いけど今からすぐに休ませてあげてもいいかい?」
トンボがそわそわと周りを見渡し、サリヴァンさんはうなずいて「そうしたほうがいいですね」と言う。アリスはずっとうつむいて立っている。
「アリスはどこの部屋になるんですか?」
オーキッドがへらへら笑いながら訊くと、サリヴァンさんは、
「南向きの一番大きな部屋だよ」
と言う。一番いい客室だ。しかも鍵もつく。サリヴァンさんの説明だと、アリスはトンボと同じ部屋で暮らすので、大きな部屋がいいのだという。しかし南向きの、一番いい部屋というのはオーキッドには納得がいかない。ごちゃごちゃ言い出し、サリヴァンさんも曖昧な説明を繰り返す。そうしていると、女の子は突然声を出した。
「あたし、鍵つきの部屋がいい。だから、ありがとうございます、サリヴァンさん」
オーキッドが黙った。女の子の声はかすれて低い声だった。今にも泣きそうな、震えるような弱々しさがそこにあった。




