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サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート3
23/40

ルーが語る事実

 サフランは歩き始めた。デビーに連れられ、よちよちと進む。靴や服は最初の女性やデビーが着ている、淡い水色のすっきりした直線の多いデザインのものだ。彼女はそれにすっかり慣れきった気分でたどたどしい歩き方をする。周りには人々が大勢いて、子供の姿の人も大人もいた。皆くつろいで白い地面に座り、その中央にいる赤ん坊や子供の世話をしている。


 デビーはサフランを天井の都市に連れて行こうとしていた。


「あそこは何なの?」


 どうやらあれは天井にあるのではなく、こちら側の地面と同じように向こうも地面であるようだった。デビーは笑って、


「私もまだこっち側にいることのほうが多いんだけどね、向こうに行くと全然違うよ。あそこは精神感応の世界なんだ」

「精神感応?」


 サフランは訊いた。デビーはにっこり笑って彼女を抱き上げた。小さな彼女を連れて回るには抱き上げるほうが楽なのはわかっているが、他人から必要以上に触られるのは夢であっても好きではない。サフランが嫌がっているのを感じたのか、デビーは彼女を下ろしてまた手を繋いだ。


「彼女を連れて行くの、手伝ってよ」


 デビーが呼ぶと、ルーがやってきた。しゃがみ込んでサフランに微笑みかけ、ルーは彼女の小さな手を握る。デビーが、とん、と地面を蹴ると、彼女は浮かび上がった。ルーも同じようにする。サフランは二人に引っ張られるように空を進んだ。ツバメになったような気分で、サフランは機嫌よく笑う。デビーも笑う。ルーも笑う。重力が転換する地点に着いたときが一番面白かった。一瞬無重力になり、次の瞬間から反対側に引っ張られる。三人は落ち始めた。流星のように急速に。しかし地面に激突する前に、三人はすい、と体をかわして着地した。天井にあると思っていた都市に着いたのだ。ふんわりと地面に降り立ったときにはサフランはそこの地面に馴染み、今度は先ほどいた場所が天井の都市のように見えた。


 彼らはうろこ張りの丸みを帯びた城の前にいた。人々はざわざわとさざめき、サフランたちを気にする様子もない。それに、先ほどまでと全く違うものが見えた。人々は皆、姿を持たずに活動していたのだ。


 サフランはデビーとルーを交互に見た。二人は確かにいた。でも、姿を失っていた。彼らは外見を失い、単なるエネルギーの塊のようになっていた。サフランもそうだ。彼らは互いを互いと認識し、自分を自分と認識しているが、目で認識するための全てがなくなっていた。サフランが驚いていると、デビーは笑う。


「さっきも体はなかったんだよ。体と同じ姿をしていただけ。ここでは、体は必要ないし、姿も必要ない。必要なのは電気信号の塊である自分だけ」

「僕らは今、ただのデータなんだ」


 ルーがサフランに言うと、サフランは二人が驚くほどキャッキャと喜んだ。彼女の一番の望みがそこにあった。


「あたし、体いらなかったの。嬉しい!」


 幼い声で甲高く叫ぶ彼女に、デビーは優しく触れた。


「私たちが心だとか体だとか呼んでいたものは、全て電気信号となってここにある。だから、こうすることもできる」


 サフランは、デビーの存在が自分の体に融合していくのを感じた。ルーも同じように、サフランの存在と一つになる。


「私たち、今までもこうして新しい人たちと馴染んできた……」


 サフランは二人の感情が流れ込んでくることに気づいた。サフランをどう思うのか、サフランを信頼しているのか、サフランにどうあってほしいのか、二人は互いをどう思っているのか、この旅の本当の理由は。それだけでない、サフランがずっと蓋をしていた大切なパンドラの箱のような感情を、二人は大きく開いた。キラキラと、彼女の溜め込んでいた感情が噴き出す。虹のように放物線を描いて。それを受け取るのはルーだ。ルーは彼女の感情を、記憶を、トラウマを全て飲み干すように受け止めた。


 サフランは叫んだ。あたしのことを知ろうとしないで! でも、もう遅い。




 目覚めたときにはサフランはルーの腕の中にいた。固く抱き締められた体は、最初どうなっているのかわからなかった。ルーの薄い胸を押すと、サフランが起きたと気づいたルーが、彼女の顔を、哀れみを持って見つめていた。彼女は彼の鎖骨を撫でた。左右の鎖骨のちょうど真ん中に、それはあった。石だ。明け方の光に照らされたそれは、確かに《災厄》の起こった者が体に持つ石だった。


 ルーは彼女にキスをした。君が可哀想だ。彼はそう言った。


「ねえ、あたしが毎晩見る夢、あれは何なの?」


 サフランは低い声で訊いた。ルーはそれに答えず、ただサフランを抱き締めている。


「彼を殺すことなんてない。僕は、僕らは君の味方だ」


 ルーの言葉に、サフランは苛立つ。


「答えてよ。あたしは自分に何が起きてるのか知りたい」


 ルーは黙った。しばらくそうしてから、サフランの背中を撫でた。そして、やがてサフランにとっては感覚のない部分に触れた。彼女は彼の手がある肩甲骨の間に手を回した。彼が手をどけると、それに容易に触れられた。


「あたしにも石ができてるの?」


 彼女は動揺することもなく訊いた。ルーはうなずいた。


「《災厄》の影響を受けた僕たちと一緒にいると、みんなそうなる。僕たちは石によって身体の情報を読み取られ、やがて《彼ら》の世界に転送される」


 サフランは眉をひそめる。


「《彼ら》って?」

「僕たちに石を埋め込んだ人たちさ。《災厄》と呼ばれたあの出来事の原因」

「他の星から来たって、本当?」


 それは噂だった。《災厄》の起こった都市の上空には必ず不思議な構造物が浮かんでいる。それはブリューゲルが描いたバベルの塔を逆さにしたような形であると。サフランはそれについてトンボ婆からこう説明を受けた。彼らは地球外生物で、その物体もおそらく宇宙船である、と。よくわからなかった。彼女は教育をある程度まで受けたが、地球の外について説明を受けたことはほとんどなかったし、それに類する文学も書物も彼女の身の回りにはなかった。彼女の中では太陽系以外の世界は存在しなかった。それがトンボ婆により示されたことで、気の遠くなるような広い世界を自分の中にイメージして、ぞっとした。


「そうだよ。僕らは小さいころに彼らの宇宙船を見たきりで、彼らに直接会えるのは生きている限りでは夢の中なんだけど、死んだら本格的に彼らの世界に生きることになるんだ」

「彼らの世界?」

「彼らの宇宙船、彼らの星さ。彼らはケイ素生命体で、僕らとは造りが違う生き物なんだけど……僕らに注目している。この黒い塊は石と呼ばれるけど、本当はナノマシンで、れっきとした機械なんだ。増殖することが可能で、コンピュータにもなる。僕らはこれによって自らのデータを遠く離れた彼らの星に転送することが可能なんだ。彼らの世界ではかなり科学が進んでいて、彼らはずっと、僕らのような生物を探してきた。広い宇宙の中で。

 彼らは滅びかけている。彼らが育ててきた星はブラックホールに飲み込まれ、彼らの多くが死んでしまった。彼らは自分たちと同じ知的生命体を見つけ、その生命――電気信号――をデータとして集めて回っているんだ」

「何のため? 何のためにそんなことをするの? あたしたちは彼らじゃないのに」


 ルーは黙った。唇を湿らせるためなのか口の中に巻き込むと、彼のコーラルピンクの若い唇には前歯によって型がついていた。


「そう。僕らは彼らじゃない。でも、彼らは僕らを求めてるんだ。でも、残念ながら、彼らが信頼に足るのかは知らない。もしかしたら僕らは彼らのために奴隷労働させられるのかもしれない。彼らの代わりに戦争に行かされるのかもしれない。でも、僕は信用してるよ、彼らのことを」


 サフランは呆れたように彼を見つめた。彼は本気だった。目はキラキラと輝き、全く疑っていなかった。


「だって彼らは僕らを救ってくれたんだから。行き詰まりしかない僕ら地球の人類の未来を、もう一段階作ってくれたんだから。黒い子供たちが僕らの体に飛び込んでくるとき、感じたのは幸せだった。僕らは同じ石を持った仲間たちと通じ合う手段を得た。僕らはただのスュン教徒で、何でもないサンフランシスコの農業従事者だった。先祖が選択を誤ったと毎日思い続けている、つまらない《残されし者》だった。《冬眠者》のことだって無責任で楽観主義の、同じ失敗を繰り返すだろう間抜けたちだとしか思えなかった。けれど、僕らには新しい未来がある。これから地球で生きていって、死んだら他の星で半永久的に生きていくこともできる」


 サフランはゆっくりと、彼に言った。


「人間は、裏切る。冷たいし、互いに何を考えているかわからない。そんな通じ合わない生き物なのに、あんたはそんなことを言うの?」


 ルーは、サフランを憐れむような目で見つめた。耐えがたい視線ののち、彼は言った。


「わかるよ。でも、それが人間だ。僕たちはそうやって多様性を身に着けてきた。まず三十八億年前に僕たちの先祖が誕生した。海中のバクテリアとして生まれ、次第に互いを食らい合う捕食者と被食者の関係が生まれた。海から逃げ出した魚は爬虫類に進化し、爬虫類は段階を経て哺乳類に進化し、哺乳類は小賢しく生き残っていった。人類の先祖は哺乳類の中でも特に狡猾な猿で、集団で生活する猿は知能を身に着け、他の生物を制圧して勢力を拡大する。人間になっても僕たちは戦争や差別ばかり……。それが僕たちの歴史だ。勝ち負けが重要で、出し抜くことが必要で、仲間となれば立場や自らの安寧を求めて重視し、踏みにじれるものは踏みにじり、生存に不都合なものは無意識下で無視する。それが僕たちなんだ。でも、彼らにはそれが必要なんだ」

「どうして? あたしたちは滅ぶしかない利己的な生き物だよ」


 サフランは怪訝な目で彼を見つめる。彼は、微笑んだ。


「彼らの話をしよう。彼らは遠い銀河で暮らす、生命体なんだ。僕たちのように増殖する生物。でも、僕たちと違って生殖はしない。するとしたら、単為生殖だ。同じ子孫が延々と生まれ、エラーもほとんど起きない。彼らは同じ考えを持ち、同じように穏やかで、同じように他者を恐れず生きている。変化があるとしたら環境変化で、彼らは環境に適応して自らの考え方、生き方を変化させる。大人になったり、危機に陥ったりしたら彼らは変化する。

 彼らは自分たちの銀河の外に出られるほど科学力を発展させた。けれど、変化が起こりにくい彼らは、次第に数を減らしていく。故郷の星はブラックホールに呑まれ、今や彼らはかつての十分の一もいない。外の星で生きていくにも、彼らの環境への対応力があっても、いつの間にか数を減らしてしまう。彼らはそこで考え方を変化させた。他の星の、他の生命体の生物としてのありようを自分たちに組み込んでみたら、と。

 僕たちは彼らが見つけた知的生命体の三例目だ。彼らは僕たちの力強い欲がほしい。卑怯さがほしい。多様な生き方や思考がほしい。僕たちは双子であっても同じ考え方をしない。他の生物と、他の人間と戦うために、どんどん作戦を思いついていく。彼らは僕たちを求めている。

 僕たちは新しいバージョンをどんどん更新していく。彼らは僕たちを仲間に入れる代わりに、僕らの生命体としての癖を、少し彼らに分けてほしいんだ。だから僕たちが石と呼ぶナノマシンの塊を増殖させ、全ての地球人の死後の生命を彼らに貸してほしがってるんだ」

「……だからあんたは石を伝染させたいの?」


 ルーはぐっと詰まったようにサフランを見た。サフランは自らの石を撫で、それからルーの石に触れた。全く同じ感触だった。黒曜石のような滑らかな温かい手触り。だって、とルーは続ける。


「僕らは地球の人類に未来を与えたい。殺されようと、嬲られようと、彼らに未来を与えたいんだ。僕らはあの世界で、彼らを皆赦したいんだ。彼らが皆苦しんでいることを僕は知ってる。被害者も加害者も苦しんでるんだ。あの世界でなら、皆互いを赦すことができる。だから君も――」

「あほらし」


 サフランがつぶやいた。ルーは黙った。


「加害者のことなんて赦さなくていい。あたしはあたしに加害した人間は全部殺してやる。あんたのそのお花畑なお優しい考えは、ぜんっぜん同調できない」


 サフランがルーを睨みつける。二人はすぐそばにいた。サフランは背中に腕を回し、自分の石をくるくると撫でていた。


「サフラン」


 ルーが彼女の腕を握った。


「触んな」


 サフランはルーを突き飛ばした。本気でにらみつけ、怒りを感じさせる口調でこう言った。


「ぶっ殺すぞ。何があろうと二度とあたしに触るなよ、クソガキ。あたしは他人に触られるのが大嫌いなんだ」


 ルーは呆然とサフランの怒りの表情を見つめた。サフランの本気をわずかにでも感じたのか、ゆっくりと彼女から離れた。再び、サフランを残してトレーラーに入る。


 意外にも、サフランは自分に石ができていることについて驚きがなかった。ルーの旅の真の理由にも。ルーたち姉弟が自分を利用していると思うなんて馬鹿馬鹿しいと思った。彼女は彼らの旅を利用していたのに――。おそらく《災厄》のためにルーの仲間たちが殺されてきたのは、石の伝染性のためだろう。それでも平気だった。自分の命が半永久的に続くことを考えても、嫌悪感はない。ただ気になっているのは、ルーの言葉だ。


 加害者を赦す? そんなこと、あってたまるか。

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