僕らは
もうずっとサフランは話さない。僕は本を読んでばかりいる。細い森の道を選んで僕らは進む。旅を始めてからひと月近く経ち、植物が力強く生えてきて、小さな花畑さえも時折見かけるようになってきた。冬という暗いトンネルを抜け、僕らは春に到達していた。
森の木々は萌え出ずる新しい枝々に彩られ、古い木だろうが切り株だろうが、若返ったかのような初々しさだ。湿った森の苔のような匂いが、ミニトレーラーの中にまで入って来る。春だ、と思う。そしてシカゴは容赦なく近づいてくる。
サフランの横顔を見る。とげとげしささえ感じさせる、静かな顔だ。僕は読んでいた本に目を落とした。突然、サフランがぼそっと言う。
「シカゴに着く前にさ、ここで野営しよう。一晩だけ」
途端に僕が返事をする間もなくミセス・エヴァンズに命じて道外れの広場になった場所に止まらせた。僕は急に止まったトレーラーの中でバランスを崩す。でもサフランは平気で手を突っ張って座ったままだ。いつもこうだ。間抜けなのは僕だけだ。
よろよろと外に出ると、もう夕暮れだった。草がうっすらと地面を覆いつつあり、僕らはそこを簡単に掃除して、フェニックスで手に入れたカーテンを燃やした。やはり乾いた布はよく燃える。僕らの寝る場所を散々圧迫していたカーテンだが、見る間に裂いた切れ端が減っていく。僕らの顔を赤く照らす火は、僕らの無言の間を退屈でないものにしてくれた。カンテラの光も相まって、この空間だけは明るく温かい。僕らは黙ったままコオロギクッキーバーを食べた。
「明日であんたをシカゴに送り届けるわけだけどさ」
サフランは僕を見ずに火ばかり眺めていた。
「記念に何かしようよ」
ぴくりとも笑わない顔で言われる言葉だとは思わなかった。僕は笑みを作ってみるが、サフランはそれに全く反応しない。
「楽しいことがしたい」
そう言うので、僕も反応に困ってしまった。セントルイスに行ってから、サフランは何だか変だ。家族のような人たちに会えたというのに、以前よりずっと暗い表情をしている。
「じゃあ、朗読会とか……。僕の本と、サフランの本の読み合い」
「却下」
サフランは手を払う動作をし、初めて笑った。僕の提案はよほどおかしかったらしい。けらけら笑って、いつものサフランのようになった。
「絶対つまんないでしょ。もっと面白いこと!」
しばらく考え、僕はトレーラーの中に入って小さな楽器を出した。ウクレレだ。滅多にない弦が全て無事な過去のものだ。ぽろん、と鳴らすといい音が鳴った。
「えっ、弾けるの? すごい」
サフランの初めての褒め言葉に、僕は気をよくする。思えばサフランが僕を褒めることなんて一度もなかった。ハワイで古くに作られた曲である「カイマナヒラ」を軽く弾き始めると、サフランは目をキラキラ輝かせた。調子に乗ってゆっくりと鳴らすと、明るくて穏やかな波と明るい空を思わせる音楽は、僕らの間を流れていった。
サフランが拍手する。心の底から感動した様子だ。この曲はサンフランシスコにいたころに覚えたもので、僕にとっても思い出深い。だからサフランと共有できて嬉しかった。
「あれ弾いて! ええと、『ペニー・レイン』」
大昔のヒットソングだ。僕も好きで散々弾いた。温かくて明るくて、ノスタルジックな一曲。そっと弦を弾き、弾き始める。ウクレレだと更に陽気になる。僕の低い声はネッドのように渋くないけれど、この曲にはよく合う。
サフランは目を閉じて聞いていた。口元は微笑んでいる。リズムを取り、左右に揺れ、――やがて一緒に歌い出した。
驚いた。サフランの歌声はとても美しい。かすれているけれど伸びる声。温かみのある、優しい声。僕らは歌った。僕らが想像もつかない過去の、豊かな時代に描かれたイギリスの通りについて歌った。歌詞はところどころ曖昧だ。抜け落ちて、今風に書き換えられ、――でもこの曲は今となっても清新で面白い。サフランの声があれば、余計に歌に華が添えられ、通りを歩く女の子さえ想像できる。サフランのような、背の高い魅力的な女の子を。
歌い終えると、サフランはけらけら笑った。上手いじゃん、と僕を小突いた。僕は笑い、過去のポップソングを次々に鳴らした。
僕らは歌った。彼女の低く、かすれた、柔らかい声は、僕のざらざらした声と絡み合って星という名の穴で埋め尽くされた冷たい夜空へと高く広がっていく。音程が高くなれば、彼女は顎を軽く上げて喉をさらし、目を細めて歌う。大昔の曲を歌うのは楽しい。即興でウクレレを掻き鳴らすのも、指が自然と躍るくらいだ。もう誰が作ったのかもわからない「ハロー、グッドバイ」は僕らのお気に入りの曲となった。
歌う彼女はより一層美しくて、僕は彼女を初めて発見したような気になった。感情のこもった表情で歌う彼女。歌い終えて笑う彼女。僕は彼女に恋をしている。彼女を手に入れたいと思っている。
「ヘルプ!」を歌いながら最高にふざけた歌い方をした彼女を、僕は抱き締めたくなった。でも、彼女は嫌がるだろう。決して僕を受け入れたりなんかしない。
これまで僕は、どれだけサフランにこの旅の意味を説明しそうになっただろうか。何も知らないサフランに、僕とデビーの目的を明かしてしまったら、全てが台無しになってしまうだろう。
でも、言えやしない。「君は利用されているんだよ」だなんて。
僕は本ばかり読む本の虫だ。僕の人生が人生だから、暗くて救いのない本ばかり読んでいる。サスペンスと怪奇小説ばかり読んでいるとなれば、人生観が暗いのは一目瞭然。人間は悪。人間の心には闇がある。人間は嘘つきだ。その全てにうなずきそうになる。
でも、サフラン。僕は君を見る限り、そう思うことはできない。君のかけがえのない親切心は、僕の暗い人生観を明るく照らす。そう言えることは、きっと一生涯ないだろうけど。
ふと、彼女は僕の表情を見て不安な顔になった。それから歌い止め、
「もう寝ようか」
と言い出した。僕はウクレレを鳴らす手を止め、ネック部分を掴んで彼女の黄色いミニキャンプトレーラーに向かった。彼女は既に寝袋に入って目を閉じていて、僕の寝袋も隣に用意してある。彼女の年季の入った寝袋に比べて僕の寝袋は清潔で、彼女の細やかな心遣いをいつものように感じる。
「僕らの話をしようよ」
僕はトレーラーの入口に腰かけ、固く目を閉じる彼女に話しかけた。ゆっくりと、睫毛の際から彼女の独特の瞳が覗き、こちらを見た。
「僕らの話をしよう」
彼女は力なく振り向き、寝袋から腕を出すと左腕で頭を支えて僕の目を見た。それから僕らは互いの話を始めた。
僕は僕の話をした。彼女は飼っていたジャクリーヌという白い大型犬の話をした。白い犬と戯れたこと。幼いサフランの一番の友達はジャクリーヌだったこと。でも、それだけ。彼女がしてくれたのは犬の話だけだ。
サフランが寝入った夜中に、僕は彼女の横顔を見ながら目を離せなかった。こんな夜は数えきれないほどあった。彼女はきっと熟睡などしていない。僕が隣にいる限り、熟睡なんてできない。だって彼女は――。
「試す?」
目を閉じていた彼女が、起き出して僕を見つめた。暗い中でも、月明かりに照らされて彼女の目はつやつやと光って見えた。僕はぎくりとして彼女から目を逸らした。試すって、何を?
「最後だから試してみよう。あんた、あたしのことが好きなんでしょ?」
彼女は起き上がり、寝袋から出た。トレーラーがぎしっと鳴った。白い長袖のTシャツは似たようなものを何枚か持っていて、寝るときも着ていると僕は知っている。それを、ゆっくりと脱いだ。僕が動揺するのも構わず、コルセットのようなチューブトップも脱ぎ、彼女は上半身裸になった。
何が起こっているのかわからなかった。彼女は僕に体を差し出そうとしていた。彼女の裸身は白く、やや日焼けした顔や手とは比べ物にならなかった。彼女の乳房。丸みを帯びた乳房は何よりもきれいだった。
僕は震える手で彼女の乳房に触れた。柔らかくて、重くて、温かい。心臓の音がかすかに伝わる。彼女の若木のような手触りの肩に触れ、唇を探ってキスをする。固い唇。僕の恋する女の子の裸が、目の前にあり、僕は触れている。何も考えずに彼女の提案に飛びつきそうになる。でも、だからこそ、僕はこう言うしかなかった。
「やめよう」
僕は離れた。彼女は僕を見つめながら荒く息をしていた。僕に欲情してのことではない。彼女は僕に怯えて震えていた。彼女が鳥肌を立てていることに、僕は気づいた。慌ててTシャツを手渡し、僕は彼女に言った。
「僕は君とセックスしたいと何度も思ったけど、君がそんなに怖がってるならできないよ。だって僕は君のことが好きなんだ」
サフランはどっと疲れたようで、トレーラーの床に倒れ込んだ。顔を隠して大きく息をする。それから服を身に着け、
「あたし、外で寝るね」
とかすれた声で言い、トレーラーから出て行った。僕こそがここから出たかった。安全なトレーラーの中で、サフランに一息つかせたかった。でも、サフランは拒絶するだろう。僕の保護をするのが自分の仕事だと思っているサフランは。
僕らの最後の夜は、苦いものとなった。切ない、寂しい夜だった。




