サフランの決意
夜中に震えながら、泣きながら、怒りながら起きて、自己嫌悪に陥るのも、誰かをずっと憎むのも、他人に目を向けられないくらい自分のことばかりになってしまうのも、もう嫌だった。誰かを愛せない自分でいるのももう限界だった。このまま生きていくのは無理があると思った。サフランはとつとつと彼らに彼女の考えと気持ちを説明した。
ネッドは何も話さなくなった。焦燥していた。ただでさえ落ち着いていない癖毛の髪の毛を掻きむしり、頭の上はめちゃくちゃになった。ただサリヴァンだけが静かに聞いていて、サフランの話を聞くでもなく聞く様子で、彼女が話し終えるとこう言った。
「トンボ婆はどう思うだろう? 私たちはどう思うだろう? そんな自殺行為に近いことしようとしている自分を、君自身は将来どう感じるだろう? 時間が経って――例えば十年、二十年、もっと経って君がおばあさんになるころに――何かが変わるとは考えられないかな?」
サフランはうなずいた。泣いてもいなければ驚いてもいない、ただ予想通りの言葉を言われただけの彼女は、
「ただ今が耐えられないんだ」
と悲しそうに微笑んだ。
「俺がルーをシカゴまで送るよ。シカゴに行くきっかけがなければそんなことをしなくていいんだから」
ネッドが立ち上がってサフランを見下ろす。ひどく悲しそうな目だった。サフランは胸が痛んだが、これも予想通りの、何度も想像した通りのネッドの様子だったので動揺はしなかった。
「もうきっかけは始まってる。あたしの考えは固まって、もう動かない」
「ならミセス・エヴァンズを破壊してやる」
ネッドの言葉に、サフランは初めて泣きそうになった。ネッドにはそんなことができないとわかっているからだ。ネッドはサフランの自由を奪うことなどできない。サフランがやりたいことを阻むことなどできない。ネッドはあの男とは違うから。
「あたしはシカゴに行くよ。絶対に行く。そして、あの男を殺せても殺せなくても試みる。そうしなきゃ、本当にあたしは壊れてしまう」
ネッドがのっそりとサフランの前を横切って部屋を出て行った。部屋にはサリヴァンとサフランだけが残った。サリヴァンは小さくため息をつき、サフランを見つめる。
「君は私たちをよく知ってる。私たちがどう思うかも知り尽くしてる。でも、何もかも予想通りには進まない。君はいつかここに戻ってくるかもしれない。子供を授かるかもしれない。世界そのものが全く違うものになるかもしれない。何も思った通りにはならないんだ」
サフランはうなずいた。彼の言葉の意味を、全部わかっているつもりだが、そうではないのかもしれない。それでも決意は揺らがない。
「君には、私たちが君を大切に思っていることだけは知っていてほしい。君が思う以上に、君が予想しつくしたと思ったのとは別のやり方で、私たちは君を想っているのかもしれないよ」
サフランは微笑んだ。それでも、――何も変わることはなかった。
夕日が街に潰れていくように沈んでいく。夕食の煮込み野菜と煮卵の匂いがする中、バスルームでお湯を作ってくれたトンボ婆は、サフランの背中を流すと言って聞かなかった。小さいころのようにトンボ婆が体を拭いてくれることに少し照れはあったが、サフランは笑って受け入れた。
「あんたは相変わらず耳の後ろをちゃんときれいにしないんだね」
トンボ婆は裸のサフランの耳を濡らして絞ったぼろ布で乱暴に拭いた。痛さに呻いて、サフランは懐かしさでけらけら笑った。昔、よくこうしてくれた。あのころトンボ婆は彼女をサフランなどとは呼んでいなかった。サフランは変わらずトンボ婆と呼び、彼女になついているが、トンボ婆はサフランに敬語を使っていた。あのころ、あの家の、アイリスの咲くベランダで、トンボ婆はサフランにこうささやいた。「逃げましょう」と――。
「本当に同じ部屋で寝てたのか?」
バスルームから出ると、ネッドが驚いたようにサフランに確認した。見るとルーが彼の後ろに立っている。ルー自身不思議そうな顔だ。ネッドが本気で驚いているからだ。あのころの自分を思うと、ルーと同じ空間で寝泊まりしている今の自分は確かに驚きに値する。でも、以前の自分とは違うのだ。そんなに驚くことではない。
「ルーは確かに男だけど――」ルーが目を丸くする。「別に平気。あたしに欲情したとしても殴って気絶させればよくない?」
ネッドが困ったようにうなり、それならばと二人に同じ部屋を用意した。ルーにサフランに触れないように何度も確認し、ルーがよくわかっていることを確認すると、納得したようだった。
「僕だってサフランに殺されたくないもんね。わかってるよ」
ルーがてのひらを上に向けて笑うと、ネッドは変わらず渋い顔をしていた。
「……ネッドは過保護すぎない? 本当につき合ってたの?」
ぎこちない食事の席が済んで、ベッドルームの同じ部屋で寝る準備をしていると、ルーが髪をブラシで梳きながらサフランの顔を覗き込んだ。彼女はすでに目を閉じている。拳銃はしっかり枕元に置いていたが。サフランは薄く目を開いてルーを見た。
「ん、まあ妹みたいなものなんだろうね。あたしとつき合ってたのも哀れみとか同情から派生した庇護心みたいなものだったのかもしれない」
ルーはそれを聞くと心の底からホッとした顔をした。サフランは苦笑する。
「あたしがわがまま放題に振舞っても全然嫌がらないから大好きだったし、今もすごく好きだよ」
「じゃあ何で別れたんだよ」
ルーは怪訝な顔で訊く。サフランは目を閉じたまま簡単に答える。
「セックスしようとしたけどできなかった。それだけ」
ルーは黙った。それ以上追及してこないので、サフランは勝手に続ける。
「まず、裸になるのが無理だし、体に触られるのも無理だし、性行為自体無理。そのときやっとわかった。ネッドはその気になってたけど、あたしが準備できてなかった。無理だから別れよう、ということにした」
しばらく黙ってルーを見つめた。ルーは長い髪を梳きながら呆けたように考えている。それから目が合った。サフランが見つめ返しても、揺らがない。
「サフランのことが知りたいな」
ルーは何の脈絡もなくそう言った。サフランが首を傾げて彼を見ても、
「もっとたくさんのことを知りたい。一冊の本にできてしまうくらいたくさん」
サフランはくすっと笑った。
「そんなに教えたりしない。あたしとあんたは警護する側とされる側、それだけなんだし」
ルーは考える顔をし、すぐにベッドに潜り込んだ。サフランも同じようにした。それから、いつもの夢を見た。




