セントルイスの人々
キャリーケースの思い通りにならないタイヤに悪戦苦闘しながらしばらく歩いて行くと、廃墟しかなかった街並みに活気が見られるようになってきた。これまではどこもかしこもフラッグスタッフと大差のないオークやカエデ、ヒッコリー、アメリカハナズオウ、アメリカヤマボウシのような木々に浸食された街並みが続いていたが、細かく迷路のように家々が並ぶ地域に来ると、そのところどころに人が住んでいることが分かる。庭が手入れされているところもあるし、家が新品同様に見えるほど大切にされているところもある。
「どうやって生活してるの? 何だか西海岸とは大違いだね」
ルーが興味津々にネッドに訊く。サフランには訊かない。ネッドは苦笑しながら、
「ここではダムが使えるからな。家によっては電気が通ってるところもあるよ。不安定だけど。あと工場で働く住民が多いから、西海岸よりは生活が安定しているかもしれない。あっちは本当に何もないからな」
と答える。サフランが補足する。
「つっても、特別なスュン教徒くらいしか電気の恩恵にはあずかれないよ。ネッドは電気を盗んで生活してるんだし」
ネッドが、言うなよ、と困ったように言うと、サフランがからからと笑う。サフランはネッドに遠慮がない。そのこともルーには面白くないようだ。
「僕の西海岸での日々は何だったのかというくらい、ここは豊かだよ」
ルーの静かな声に、サフランが笑い止む。
「西海岸でのスュン教徒の暮らしが彼らにとっての本来の姿なんだよ。東に行くほど驚くよ。奴らどんどん業突張りになる。権力ってこんなもんかと思う」
ネッドが続ける。サフランは無表情に歩いている。ネッドがそれに気づき、話題を変えるように微笑んでルーを手招きする。ルーが寄っていくと、ネッドは悪戯っぽく笑う。
「ルー、君も驚くよ。サフランが俺たちの中でどんなに甘ったれで、わがままになるか。サフランは俺たちの中にいるとほとんど十四歳の女の子なんだ。王女様さ。だからきっと君も――」
「ネッド! そんなこと言わなくていいよ!」
サフランが慌てて言うと、ネッドは顔を上げて笑った。ルーも少し気分がよくなったのか微笑んでいる。
住宅街の道をずっと進み、廃墟と使われている家が交互に並ぶ街並みの中に、一際大きな家があった。白かっただろう壁は雨で汚れてしまっているし、緑色の屋根は褪せているが、ガレージ付きの家だ。
「サリヴァンさんも驚くよ。なんせサフランが帰ってきたんだから」
庭は美しく手入れされ、入り口にバラの株が生えており、赤い花を咲かせている。まだ花の咲いていないルピナスの群生がこれからに期待させる。地面にはところどころにクローバーが広がり、ネッドは構わずそれを踏みつける。サフランが注意すると、
「踏むと四つ葉が増えるよ。そうじゃなくたって気にすることじゃない」
と構う様子がない。百年以上前から人類は自然環境の保全を訴え、植物を大切にする風潮があるが、ネッドは例外的だ。
ルーは興味深げに家を見る。サフランもそうする。以前住んでいたこの家は、全く変わる様子がない。オーキッドが去ったとは聞くが、それ以外の皆は変わらないという。サフランは真っ直ぐに歩く。目の前のネッドが開くドアを、まじまじと見つめる。
「サリヴァンさん、帰りました。驚くような人がいますよ」
家の中を覗くと、階段の手すりの陰から小さな女の子が顔だけ覗かせた。三人を見つめ、驚いたように叫んで奥へと走り出す。
「サリヴァンさん、サフランが帰ってきたよ!」
降りるほうの短い階段を慣れた動作で降りた女の子は、ホールへと、更に奥の談話室へと走る。ネッドが笑いながら女の子に声をかける。「ローズマリー、転ぶなよ」と。女の子の声のあと、しばらくしてから顔を出した人がいる。眼鏡の老人だ。白髪にコーヒー色の肌をした男性は、「へえ」と珍しそうに眼鏡をかけ直した。それから柔和に微笑む。
「おかえり、サフラン」
と。サフランは顔が上気するのがわかる。
「わっ、本当だ、サフランだね」
ぼさぼさの長い茶髪の女性が現れる。彼女はラベンダー、ローズマリーの母だ。つかつかと近づいてきて、あまり笑っていないけれど嬉しがっているのがわかる。彼女はサフランの肩をとんとん、と叩いて「おかえり」と言った。サフランは三人を抱き締めようとしてやめて、「帰ってきたよ」と笑った。
「ねえ、トンボ婆は?」
サフランは階段を降り、きょろきょろと談話室を探した。彼女はいつだって暖炉のそばにいた。今日も寒い日だ。きっと彼女はそこにいる。でも彼女は毛布のかかった長椅子の上にも、古ぼけたロッキングチェアにもいなかった。サフランは半ば取り憑かれたように彼女を探し始めた。椅子の後ろを見ていると、
「そんなところにいるわけないだろう。あたしが倒れてるとでも思ったのかね!」
と声が降ってきた。振り向くと、そこにいたのは白髪を短く切ったいかめしい顔の老女で、大きすぎる口、奥まった目、厚手の服を何重にも重ねた丸い体格と低い身長は、どう見ても彼女だった。
「トンボ婆!」
サフランは彼女に抱き着いた。垢じみた、懐かしい匂い。トンボ婆は昔から風呂嫌いで、いつだってすえた匂いがしたが、それすら今は嬉しく感じた。嗅ぐなと言わんばかりにトンボ婆は動じることなくサフランを右手だけで引き離した。
「今臭いのはあんたのほうだね。お湯を用意してやるよ。連れの分もね。しばらく待ちな」
トンボ婆は大股に歩くと、バスルームに向かって行った。この街では水を手に入れやすいし、薪にする枯れ枝も豊富だ。
「懐かしいなあ。水をたらいに入れて、ガレージでお湯を沸かして、たらいにお湯を足してお風呂のお湯を作ってたね。うん、あたしすごく懐かしい」
サフランは母鳥につき従う雛鳥のように後ろをついて行った。トンボ婆は厳しい顔で振り返り、「待ちなって言っただろう」と太い指をサフランのあごに押しつける。ネッドがサフランの腕を引っ張って笑う。
「一人にさせてやろう」
ルーはネッドの言葉の意味がわからないようで、疑問を抱えつつも訊かずに黙っている様子だ。ネッドはサフランとルーを立たせ、挨拶をするように促す。サリヴァンは水を持ってきてテーブルに配っている。ローズマリーはかすかに笑っているラベンダーのひざに寄りかかっている。
「ええと、帰ってきました。サフランです。久しぶり」
皆が拍手をする。サフランは目をぱちくりさせて続ける。
「こいつはルー。あたしは今こいつを警護してる」
大変な仕事、とラベンダーがつぶやく。
「あたしはずっと西海岸で配達の仕事をしてたんだけど、こいつのお姉さんに依頼を受けてからはずっと一緒に旅をしてる。西海岸はカラッとしてて明るい場所だったね。友達も何人かできた。ずっと車中泊をしたり、村の宿に泊まったりして生活してた」
おうちは? とローズマリーが訊く。サフランはうなずき、西の方角を指さした。
「家はあるけどほとんど住んでない。廃墟同然」
今度はルーが驚いた顔をする。彼女が西海岸に家を持っていること自体知らなかったのだ。
「で、あちこち旅した。ロスアンゼルス、サンタモニカ――ここでルーと出会った――、サンディエゴ、ラスベガス、フェニックス、フラッグスタッフ、で、今いるのがここセントルイス。長い旅だったよ。大昔の国道だったルート66に沿いながら、ふらふらしたり、急いだり。フェニックスでは肉の缶詰を探したり」
一同は感心したようにうなずく。ネッドは微笑んで聞いている。何だか昔に戻ったみたいだ、とサフランは思う。ここはこういう場所だった。温かくて、優しい避難所。彼女はずっとこの空気に甘えてきた。
「それで、どこに行くの?」
ローズマリーがまた質問した。ルーが答えようとしたが、サフランは止めた。一瞬黙り、ネッドを見る。
「そう、あたしたちの行き先は――」
ガレージから大きな声が聞こえてきた。ただごとではない女の叫び声、とも取れるが、それはこの家の人間にはお馴染みのものだった。トンボ婆のうれし泣きの声だ。トンボ婆は嬉しいと遠くに行って大きな声で泣く。誰にも聞こえないと思っているようだが、声が大きすぎてみんなこれがトンボ婆のうれし泣きの声だとわかっている。皆にこにこと笑って顔を見合わせた。サフランは続ける。
「行き先は、シカゴ」
途端にサフランとルー以外の全員の表情が消えた。しんと静まり返っている談話室を、ルーは驚いたように見回すが、サフランは目を伏せてからもう一度全員の反応を見る。彼らのタブーに触れたことはサフラン自身わかっていた。そのタブーは彼女の中のものだからだ。
「シカゴ?」
ネッドが最初に口を開いた。半分怒ったような、混乱した表情だ。
「シカゴ? お前は何を言ってるんだ? シカゴは――」
それからルーを見て言うのをやめた。ルーは不安げに談話室の面々の顔を見回している。皆何かを言いたいが言えない顔だ。それはルーがいるからだ。
「僕、席外すね。トンボさんのところに行ってくる」
ルーは談話室を急いで出て行った。あとには静まり返った人々が残る。サリヴァンは心配そうにサフランを見つめる。ラベンダーは不思議そうにサフランを見るローズマリーを連れて、自分たちの部屋に向かおうとする。ネッドは、困り果てた顔でサフランに訊く。
「ルート66でシカゴへ、か。ルート66って曲、音楽にあったよな。お前たちはシカゴからロスアンゼルスへと車で向かう呑気な歌詞とは逆の方向に行くんだ。ロスアンゼルスからシカゴへ……。呑気とは逆の道をな。なあ、シカゴでお前に何が起こったのかわかってるか? そして、シカゴに行くと何が起こるかわかるか? あんなことが起こった街に、お前は帰るのか?」
「そうだよ」
サフランはかすかに笑った、諦めたような顔で答えた。ネッドが崩れ落ちるように長椅子に座った。
彼らが彼女を自分たちの仲間として心の底から同調し、心配してくれていることはよくわかっていた。ネッドは彼女のことを誰よりも大切にしてくれていたから、この反応も予想通りだった。彼らは彼女を妹のように、娘のように、家族のように扱ってくれていた。
「シカゴに行ったら捕まって――」
「その前にあたしはあいつを殺す」
サフランの無機質なほどに静かな声を聞き、ネッドは弾かれたように彼女を見上げた。彼女は落ち着いていた。ずっと考えていたことを、体の芯まで馴染んだ考えを彼らに話した。
「もうあたしは我慢できない。シカゴに行ってあいつを殺す。そうしないと、あたしはもう生きることができないから」




