ネッド・ホプキンス
最近、寝床に入るのが億劫で仕方がない。サフランは眠ることを居心地悪く感じていた。ルーは隣で寝息を立てている。寝なければ体力が回復しない。そうしなければいけないのだが。ルーの横顔は子供のようだ。唇をぽかんと開いてくうくうと小さな音を出して眠っている。えい、と寝袋に入る。近頃の肩甲骨の間のかゆみも気になって仕方がない。軽く掻いて、寝袋のジッパーを上げる。
眠りはスープを煮込むような優しさと温かさでやってきた。
ジャクジャクジャク、とハキリアリが丁寧に葉を切り取る音が聞こえる。またか、とサフランは思った。この音が聞こえたあと、必ず最近ずっと続いている夢が上映されるのだ。不快なわけではないが、何か不安を誘う。彼女はこの夢の中で、徐々に成長しているのだ。周りから覗き込んでくるデビーやルーは全く姿が変わらないのに。手が届く範囲は広がっている。起き上がることだってできる。ただ、彼女は一歳未満の赤ん坊の容姿をしていて、言葉を発することもできないのだが。
ルーはにこにこと笑ってサフランを抱き上げる。かわいい、かわいい、とあやされる。どこか精神的にも赤ん坊のようになっているサフランは、それが嬉しくて声を上げて笑う。屈託のない子供のように笑えるのは、この夢の中だけだ。
「……ケイ素生命体でね……ナノマシン……僕らの情報を吸い取って……未来へ……コンピュータが僕らの……サフラン、聞こえてる?」
サフランはルーの長ったらしい話に眠くなってしまう。どうやら彼女がうとうとし始めたのを見て、聞いていないのを前提に何かを説明しているらしいのだが。
それからまた、ジャクジャクジャク……とあの音が聞こえて夢は遠ざかる。
一体この夢は何なんだろう?
「サフラン、ご機嫌だね」
ルーが窓の外を眺めるサフランに低い声で声をかける。本人は不機嫌そのものだ。サフランは笑みを浮かべたまま訊き返し、そんなことないよ、と答えた。
「だってさ、この辺りは人口も多いところがあるし、どこにスュン教本部に関わる人間がいるかわかんないじゃん。だからミセス・エヴァンズに頼む道も用心深く選んでるんだよ」
サフランは笑んでいる。ルーはサフランが見ていた窓の外を見た。大きな蛇行する大河。ミズーリ川だ。水質はかなりよくなったのだろうが、「ミズーリ」の意味がネイティブアメリカンの言葉で「泥の河」というだけあって、茶色く濁った川だ。向こう岸には森。この辺りもかなり緑化している。しかしミセス・エヴァンズの目の前には取り残されたビル街が残っていて、どうやらちょっとした街として機能しているらしい。
「農場だけじゃなくて工場もあるんだよ。ほら、コオロギクッキーバーの。他にも乾燥野菜だったり、保存用のワインの工場とかあるし。浄水場もある。大きなダムがあって、水力発電で工場の電力をまかなってる。この工場や水力発電所も《冬眠者》の贈り物だね。水力発電所は元々あったんだろうけど」
サフランはセントルイスについてよく話す。とても機嫌よく。そのため、ルーはどんどん沈んだ顔になり、本ばかり読むようになる。
「あのさあ、サフラン」
ルーが暗い声で訊いた。
「ネッド・ホプキンスに会うの、そんなに楽しみ?」
サフランは話すのをやめた。それからしばらく考え込み、
「わかんない」
と答えた。ルーが苛々し出す。ネッドに敵愾心を燃やしているルーは、ネッドの正体についてあれやこれやと考え続け、ついには夜も寝袋の中でそのことを考えているようなのだ。
「わかんないってことはないだろ。だってネッドはサフランの元恋人なんだから!」
「でも、別れたからね」
サフランは微笑む。ルーはじっと彼女を見つめ、うなずいた。
「あたしは単純にセントルイスが好きなんだ。あたしがここまで元気にやれるようになったのは、セントルイスの人たちのお陰だから。ネッドのことも気になるけど、色んな人に会って元気だって伝えたい。だから、あたしが今浮かれてるのは、セントルイスのせいなんだよ」
意外だったのか、ルーが唇を小さく開いて驚いていた。ずっとネッドのことしか知らなかったルーは、サフランの過去のかけらを初めて知ったような、少し満たされた顔をしていた。サフランは笑って、
「ああ、楽しみ」
と鼻歌を歌い始めた。
ミセス・エヴァンズは川沿いの道を離れ、鬱蒼とした森に近づいて行く。元は郊外の大型ショッピングセンターだった場所だ。かつては多くの市民が家族連れで数日に一回のまとめ買いにやって来ていた場所。建物は色あせて壊れているが、駐車場だった広大な土地にはアスファルトを突き破った木々や草が伸びている。街が目の前というところでミセス・エヴァンズは次第に足を緩め、大きなカエデの木に隠れるように数歩歩いてうずくまった。
「さ、ここからは徒歩だよ。持ち出すのは持てる程度の量の荷物だけ」
サフランは素早く荷物をまとめると、古くて大きな黒いキャリーケースに突っ込んだ。それから彼女が持っている全ての武器。ナイフを四本、拳銃を三丁、それに使う弾薬をありったけ。ルーはしばらく本を見つめていたが、サフランが待ちくたびれたようにミセス・エヴァンズとトレーラーに緑色のカバーをかけようとし出したので、慌てて三冊キャリーケースに突っ込んで外に出た。
「何の本を選んだ?」
「この間もらった本だよ。『ハドリアヌス帝の回想』に、『春にして君を離れ』、あと……」
サフランが目の前を見ているのに気づくと、ルーは話すのをやめた。サフランは目を輝かせていた。彼女の目の前にいたのは、背の高い男だった。黒い髭を顔中に生やし、今では生産の困難な眼鏡をかけ、猫背で、無表情にサフランを見つめていた。服装は今の季節には合わない薄汚れた長袖の黒いTシャツ一枚に破れたジーンズだ。おそらく敢えて破れたものを着ているのではなく、着ているものが破れてしまったのだろう。穏やかな熊、とも表現できるその男は、ゆっくりと右手を上げようとしていた。
「ネッド!」
サフランはキャリーケースを置いて走り出し、男に飛びついた。男はよろけ、眼鏡を直すと抱き着いたままのサフランにぼそぼそとおかえりの挨拶をする。サフランを抱き締め返すことはしない。彼女の肩に軽く触れるだけだ。男は小さなこもった声で言い訳でもするかのようにささやいた。
「近くにミセス・エヴァンズの反応があったから……」
「久しぶり! グラハム・ベルでの連絡は届いてた?」
サフランは構わずネッドの胴体をぎゅうぎゅうと抱く。彼は戸惑ったように笑ってこくりとうなずいた。
「多分全部チェックできてると思う。サフランにしてはまめに連絡してくれたよな」
ネッドは微笑んだ。サフランは何度もうなずき、
「ならよかった! ねえみんなは元気? どうしてる? トンボ婆は?」
と笑ってやっと離れた。手はネッドのひじを掴んだままだ。
「オーキッドは別の街に行ったけど、みんな元気だよ。なんせまだ二年しか経ってないからな。トンボ婆も元気だ。変わらず妄言吐いてるよ」
サフランはけらけら笑った。ネッドはちらちらとルーを見ていた。ルーは唖然としてサフランの変貌ぶりを眺めていたが、この状況に耐えられなくなったのか、二人に近づいてサフランにとげのある訊き方をする。
「僕は誰でしょう、サフラン? 彼に紹介してくれないの?」
サフランはやっとルーに気づいて振り返った。ネッドとしても話が進んでようやくホッとしたらしい。サフランに目で紹介するように促した。サフランは少し面倒くさそうに、
「こいつはルー。今警護してるんだ」
と言い、次の瞬間には先ほど話に出たトンボ婆の話をネッドにねだりだした。ネッドは気まずそうにルーを見ると、
「俺はネッド・ホプキンス。サフランの友達だ」
と弱々しく笑った。ルーはネッドにいい印象を抱いたのか寄せていた眉をほどくようにして何度かうなずいた。サフランはそれにも構わない。
「ねえ、トンボ婆は? 二〇二歳だったよね。元気?」
「二〇四歳な。二年過ぎたから。元気にしてるよ」
サフランはまた明るく笑った。いつまでも離れないサフランの背中を、ネッドがあやすように軽くてのひらで叩くと、サフランはやっとネッドと密着するのをやめた。それでもタイヤの壊れたキャリーケースをうるさく鳴り響かせながら、隣を歩いて行く。ルーが、
「僕もついて行っていいかなあ?」
と厭味ったらしく訊くと、サフランは「いいよ」と機嫌よく答えた。ルーは忌々しげにあとに続く。ネッドが振り向き、
「今夜は煮込み野菜のスープと、煮込み卵だよ。あとコオロギクッキーバー。サフランが好きな炙ったやつ」
とルーに話しかけると、サフランはとうとうネッドの首に抱き着き、彼の髭だらけの頬にキスをした。
「あたし炙ったクッキーバー大好きだもんね。覚えててくれて嬉しい」
サフランが楽しげに手足を広げて一回転する。ネッドは気まずそうに笑っていたが、ルーは口をぽかんと開け、次に怒りのこもった顔になった。どうやら不満が頂点に達したらしい。
それでも二人からつかず離れず、ルーは歩いて森のような街へとついてきた。




