↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート2
17/40

森の図書館

 ミセス・エヴァンズが森の道を大急ぎで進む。彼女の走りによって、腐葉土が舞い上がることが増えた。ここは更に湿った土地で、今までよりかなり過ごしやすい。


 サフランの機嫌がよくなるほどに、ルーは黙り込むようになった。サフランが鼻歌を歌う。ルーは本の世界に入り込む。ルーが読んでいるのはクリスティーの小説だ。小さくて古いハードカバーで、擦り切れは少ないがかなり日焼けして紙も茶色くなり、文字を読むのさえ厳しい。


「それさあ、新しい本に交換したら?」


 サフランがルーの本を指でつまんで取り上げる。ためつすがめつ眺め、匂いを嗅ぎ、すえた匂いにいきなり咳き込む。


「臭いよこの本。あんたの好きな本って大体は流通してる本なんでしょ? 途中の家で本を探してみようよ」


 ルーはサフランから乱暴に本を取り上げる。本をぎゅっと抱き、


「それができても僕はこの本を手放さないからな」


 と野蛮人を見る目でサフランを睨む。サフランはやれやれと頬杖を突き、窓の外を眺める。ふと小さく声を漏らし、


「家があるよ。入ってみよう」


 と指さした。ルーは怪訝な顔で同じ方向を見たが、森の道からも見える大きな家があるのに気づくと、渋々と言った様子でうなずいた。彼も新しい本が読みたいのだろう。


 ミセス・エヴァンズは森の枯れ枝で覆われた家へと続く小道を、勢いよく進んでいく。ルーは慌てて手を突っ張る。サフランは床の突起を掴んで自分を支えている。ひどく揺れるトレーラーは、奇跡的にひっくり返ることもなく走る。


「ミセス・エヴァンズ。もう少しゆっくり」


 サフランがマイクに向かって言うと、段々足の動きが遅くなってきた。広い敷地は恐らく元々畑として使われていたのだろう。今では草どころか瑞々しい葉の生えた木が生い茂り、ほとんどが森と一体化している。しかし、アイビーのつるが壁に垂れたしっかりとしたレンガ造りの家は、全く崩れた様子もない。


「人が住んでるかもしれないね」


 ルーがサフランを上目遣いに見ながら言うと、サフランは「うん」と銃を構えながらトレーラーを降りた。ルーはサフランにつき従いながらも慌てた様子で訴える。


「ちょっと! ここまでして本を手に入れたくなんかないよ」

「でもあんた、暇でしょ? 繰り返し同じ本を読んでるじゃん」


 サフランは構わず家のドアを開き、中を覗いた。銃を中に向けながら進み、「大丈夫だよ」とルーを誘う。ルーは恐々とついてくる。


 家中が本棚になっていた。整然といくつも並ぶスチール製の形の揃った本棚には、シェイクスピア全集も、『ドン・キホーテ』も、ラテンアメリカ傑作集も、アフリカ幻想小説精髄も、『源氏物語』の英訳版も、SF小説の年代別・国別の短編集も、歴代のピューリツァー賞受賞作品も、ドストエフスキー全集も、『失われた時を求めて』の全巻もあった。ルーは目を輝かせた。


「うわー、すごいすごい。ここ、何でもあるよ。図書館みたい。図書館だったのかな? でも、番号が割り振られてないから個人の所蔵だな」


 それからアガサ・クリスティーのコーナーに行き、一冊を手に取ってしみじみと感動したらしい表情で眺める。


「この本、中が白い……。僕が持ってる本と比べ物にならないよ。おまけに僕が読んだことのない作品もある。噂にしか聞いたことのない本も……。でもさ、でもさサフラン。こんなにきれいな本は、きっと……手入れされてると思うんだ。今でも」

「あたしもそう思う。この家には人の気配がする」


 サフランが気を抜きつつも銃を構えたまま言うと、ルーはぎょっとする。


「ならここから出ようよ。危ないよ」

「いいじゃん、二、三冊盗みな。人がいないうちに」

「僕は他人が大切にしてる本を盗みたくないよ……」


 愕然とした表情のルーが本を戻しながらサフランに言うと、彼女は肩をすくめ、


「なら本人に頼んでみなよ」


 と奥に歩いて行き、バスルームのドアをパッと開いた。そこには一人の痩せた中年の男がうずくまっており、サフランの銃を見上げてから再び頭を抱えて縮こまった。ルーが驚愕してサフランを押しのける。


「家主がいるじゃないか! サフラン、わかってるんなら何で……」

「あたしも途中で気づいたの。でも危険はなさそうだから本をちょろまかしてそのまま行っちゃおうと思ってね」


 サフランは悪びれる様子もなく首を傾げる。何でこんなに責められるのかわかっていないのだ。ルーは怒ったようにサフランを見ると、


「強盗なんて駄目だよ」


 と叫んだ。サフランは、「だって、本だよ」と唇を尖らせる。ルーは盛大にため息をついた。うずくまっている男に手を差し伸べ、「すいませんでした」と頭を下げる。極めて東洋的な仕草だ。禿頭で黒髪の、気の弱そうな細面の男は、ルーを見て少し安心したのか顔を上げた。サフランを見て「銃をしまってください」とささやき、また顔を下げる。サフランは言うとおりにした。男はどうやら彼女たちに危害を加える気はないようだし、できないようだし、何よりスュン教徒ではなさそうだった。


「僕ら空き家だと思って来たんです。まさか人がいたなんて」


 ルーが話す間に、男はゆっくりとバスルームから出た。サフランを警戒しながら。ルーは男の気分を引き立てるように、


「すごいですね。ここの本は何でも揃ってる」


 と明るい声を出した。男はルーをじっと見つめ、しばらく思案した様子で黙った。それから用心深く、


「シュペルヴィエルの作品は読みましたか? 『異次元を覗く家』は?」


 とささやいた。どうやら人と会うのは久しぶりのことらしく、男はささやくようにしか話せないらしい。ルーは嬉しそうに微笑み、


「シュペルヴィエルは『ノアの箱舟』だけ。『異次元を覗く家』もまだ」


 と答えた。男の目がらんらんと輝いた。突如としてきびきびと歩き出し、本棚をうろついて回る。サフランが「何なの?」と訊いても、ルーは「いいから」と言うばかりだ。やがて男は数冊の本を持ってきた。


「これがシュペルヴィエルの『海に住む少女』です。幻想小説としてはとても素晴らしい。甘ったるいが、それだけに終わらない傑作です。『異次元を覗く家』はウィリアム・ホープ・ホジスンの作品で、かなり異様で引き込まれる古いSF作品です。そしてこれはあなたの年齢にふさわしい作品で、ツルゲーネフ『はつ恋』……」


 男の滔々たる説明に圧倒されながらも、ルーは、感心したようにそれを聞いていた。無論、サフランは首を傾げながら何もわかっていない。二人の気が合っていることにも、わけがわからない気がしている。


「へえ、面白そう!」

「よかったらお貸しします。私、この家を引き継いだカーシュと申します。先代、先々代がこの本の山を集めて回り、私はこの本たちを守っています」


 男は初めて笑った。声も張りを取り戻し始めた。せかせかと立ち回り、ルーとサフランのために清潔なプラスチックカップに水を用意する。井戸水だという。サフランは久々にワイン以外の水を飲んだ。冷たくて新鮮で、味わいがある。


「カーシュさん! すごいですね。何代もかけてこの本たちを守っているんですね。先代や先々代というのは……」

「全くの他人ですね。私たちはこの時代に入ってから本に飢えていて、全くの飢餓状態の本の虫なのです。私も本を探していて、空き家だと思って入ったこの家に人がおり、住まわせてもらってようやく本にありつくことができました。見てください、この本の状態。虫干しも時にしますし、気温や湿度にはかなり気を遣います。埃にも気をつけて……」


 カーシュは生き生きと笑い、頬に血の色を通わせて語り続けた。サフランにはわけのわからないことだが、二人が語り合っている間、水をボトルに補給できたし、男が育てたという大玉のカボチャを一つもらえたので、細かいことは気にせずにぼんやりして過ごした。ルーはサフランと話していただけでは物足りない何かを補給できたらしく、楽しげに笑っていた。二人の会話は夕刻まで続いた。


 家を去ることになると、カーシュはかなり残念そうにルーと握手を交わした。


「あなたがいずれこの家を継いでくれたらたいそう嬉しく思うのですが……」


 ルーはにこにこと笑い、長い握手を更に長くして返す。


「僕もそう思います。でも、僕らかなり乱暴な旅を続けているので、それは不可能でしょうね」


 ルーは借りた本を返していた。借りたものを旅の途中で傷つけるのは申し訳ないという思いらしい。カーシュはサフランを見上げ、


「そうでしょうね」


 とつぶやいた。サフランが見返すと、目をさっと逸らした。それから家に引っ込み、本を三冊持ってきた。ルーが持っていないと言っていたクリスティーの本と、あとはいくつかの分厚い歴史小説だ。カーシュはそれをルーに差し出した。


「これを差し上げます」


 ルーは慌てて固辞した。もらえばいいじゃん、と呆れるサフランを無視して、大騒ぎをして返そうとした。


「いいんです。これらの本は先々代が持っていたダブりの本ですので。つまり書庫にもあるんですな。状態がいいので読みやすいと思いますよ」


 カーシュはにっこりと笑った。ルーはうやうやしくそれを手にした。じっくりと眺め、「大切にします」と笑った。


 それからルーとサフランは再び旅に戻った。ルーは喜びを目に浮かべながら、薄暗い中、本を読み続けた。


「機嫌がよくなってよかったよ」


 サフランが言うと、ルーは「あ」とつぶやき、笑ってまた本に戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。