青い記憶
彼女の記憶の底にあるのは、青い風景だ。
クラリネットが鳴っていて、大きな太鼓が響いている。荘厳な音を辺りに示しながら進む青い衣装の楽隊は誇らしげに先頭を歩き、続くものが人々の目を引いた。
サフランはその、みんなが見ているものが見たかった。いつも一緒にいる彼女にねだって、外に連れ出してもらった。母は嫌がったけれど、どうしても見たかった。
大人の男たちがにょきにょきと厚い壁を成しているために何も見えない。近所の男の子が隙間を縫って一番前に行くのを見て、サフランは同じように前に進んだ。彼女のしわくちゃな手から離れ、呼ばれるのを無視してサフランは先頭に立とうとした。
「邪魔だよ、後ろに行きな!」
大人の大きな手で突き飛ばされた。人々はどんどん前に前にと進み、サフランは押し出されて元の彼女のそばに立っていた。また挑戦しようとすると、別の、上品な紳士に止められた。
「前に進むんじゃない。危ないよ」
でも、あの男の子は前にいるよと言うと、紳士はそちらをちらりと見て、
「君は女の子だろう。怪我をするから後ろにいなさい。女の人たちのようにね」
それは知っていた。女たちはいつものように一番後ろで、懸命に爪先を伸ばして男たちの壁の向こうにあるものを見ようとしていた。あそこじゃ見えないんだと言いたかったが、紳士はすぐにサフランのことなど目に入らなくなった。
とびきり背の高い青年が歩いてくるのが少しだけ見えた。豪奢な帽子を被っているのだけはわかった。人々の噂する声から判断するに、彼はこの秋スュン教の要職に就いたヴァン聖人の親族らしい。
王子様に対するように、皆が彼を称え、騒いだ。彼が特別に美しく、上品で、彼らを導いてくれることを人々はささやいた。
サフランは見る努力をいつまでもしていたが、ほとんど何も見えないまま青年が通り過ぎてしまうころには彼女のしわくちゃな手に肩をさすられていた。
「全くもう。女の子が前に行ったって何だっていうんだろう。あたしの若いころはこんなんじゃなかった!」
彼女の憤慨が面白くて、何よりも慰めになって、十歳のサフランは吹き出してしまった。
そんな日を思い出した。
***
フラッグスタッフに着くまでに、ルーは五回「くそ」と言った。サフランは「やめなよ、下品だよ」とすました顔で窓の外を見る。ルーは本を読んでいた。それもお気に入りのエドガー・アラン・ポーの短編集だ。「黒猫」を読みながら、ルーは少なくとも五回のうち二回の「くそ」を言った。
「何がそんなに不満なの。言ってみな」
サフランが面と向かって訊くと、ルーは勢い込んで、
「あいつ、僕らを馬鹿にしてやがる!」
と叫んだ。もちろん先ほど出会ったダニーのことだ。サフランはすでに自分を取り戻していたので、執念深いルーに呆れた。ルーは、ダニーの長身が気に食わない、自分だけトレーラーに残したことが気に食わない、態度が気に食わない、と並べ立て、最後にこう叫んだ。
「あいつ、サフランにべたべた触りやがった!」
サフランはため息をつき、「もう忘れなよ。あたしは忘れた」と詩集に戻る。ミセス・エヴァンズは相変わらずもうもうと砂埃を上げている。すでにフェニックスの街は離れた。ルーは狭いトレーラーの中で暑苦しく息巻く。
「僕だって遠慮してるのにさ。だってサフランは誰かに触られるの、嫌いだろ?」
サフランはしばらく考え込み、そうだよ、と答える。
「あたしは他人から触られるの、大嫌い。でも、『僕だって遠慮してる』って何? あんたは本来ならあたしに触れる特別な人間だっていうわけ?」
ルーはぐっと言葉に詰まったようだ。しばらく考え、「サフランの言う通りだね」とトーンダウンする。サフランはくすっと笑い、
「まああんたが怒ってくれてよかったかも。あたし一人だったらあたしが自分でずっと怒らなきゃいけなかった」
とルーの背中を叩いた。ルーは少し気分がよさそうに唇の端を上げる。それから本に戻り、
「絶対あいつ妻帯者だよ。そんで、きっと本妻は壁に埋められてるんだ」
とつぶやいた。サフランが眉を上げ、
「何の話?」
と訊く。ルーは黙って本のページを示した。サフランはそれを少し読んでから、
「あんたって暗い話ばかり読んでんね」
と詩集に戻った。彼らはフラッグスタッフにたどり着こうとしていた。この辺りはフェニックスとは違って緑化の進んだ地域だ。森がどこまでも続き、街に入ったときも、大きな木の根元に家が覗き見えたことでようやくそう認識できたくらいだった。木々は地域を呑み込んでいた。コヨーテがいる、と思ったら野犬の群れだった。リーダーらしい鼻周りの黒い大きな犬が、走り去るミセス・エヴァンズとサフランたちを見送る。それを眺めながら、サフランは「犬飼ったことある?」とルーに訊いた。
「何? 犬? 飼ったことないよ。そんな余裕ないからね。人間三人で生きていくのにも苦しいのに、犬を飼う余裕なんてなかった。むしろ僕たちの食料を情けない顔でかすめ取ろうとするから嫌いだったね」
ルーはしかめ面で答える。よほど好きではないらしい。それから、サフランは? と言葉に出さずに彼女をちらりと見る。サフランは、
「あたし、犬好きなんだ。ジャクリーヌっていう白い大きな犬を飼ってた」
と答えた。それ以上答えるつもりのない様子に、ルーは何も言えなくなったようだった。サフランは置き去りにした風景をもう一度見やった。犬はいなくなっていた。




