謎の男
男がいた。長身で、サフランよりも大柄だ。黒い髪、薄い整った髭。男はミセス・エヴァンズを眺めていた。彼女はぴくりとも動かない。トレーラーに何かが起こらない限りは動かないように命令してあるのだ。
男の後ろには自動車があった。四輪駆動の大きな車だ。ペイントされているのはスュン教の印、意匠化された女の横顔だ。男自身も長くて青い光沢ある素材で作られたスュン教の衣装を着ている。
「何だよ、スュン教徒は自動車も許されてるのかよ」
ぶつぶつつぶやくルーに、サフランは指を立てて黙らせる。スュン教の産業は農業を中心に成り立っているので、作物や食料を運ぶために列車や車を使うことは限定的ながらある。しかしこの自動車は物を運ぶためのものとは思えない。恐らくこの男が特別なのだ。自分用の車を持てるほどに。
男はしげしげとミセス・エヴァンズを眺め、次にサフランたちのミニトレーラーの中を覗いた。髭を撫でながら、男はいつまでもそうしていた。それから庭のほうに足を踏み入れだした。まずい、とサフランはルーを引っ張って移動した。生い茂った花壇の後ろに隠れ、男を見張る。男が中に入った隙にルーが物資をトレーラーに放り込んだ。サフランも続く。しかし、出発する準備が整う前に男が戻ってきた。探検は終わったらしい。二人はトレーラーの寝袋の下などに隠れた。
しばらく経って、男は車に戻り、発進したようだった。エンジン音が遠く離れていくのに、サフランは安心しすぎてひどく疲れを感じた。
もう大丈夫だろうとミセス・エヴァンズを立ち上がらせる。早くこの街を離れなければ。あの男は何かまずい感じがする。
「あの男、何なのかな。妙に貴族的で、洗練されたような感じだった」
ルーがドアから身を乗り出してつぶやく。
「いいからドアを閉めな」
サフランがルーを引き込み、ドアを閉じたときだった。反対側の、開かない窓から軽やかなノックがあった。ぎょっとして振り返る。そこには先ほどの男がおり、にっこりと微笑んでいた。
「やあ」
血の気が引く。ブルゾンの中の拳銃を手で触ると、男は、
「それはやめてほしいな。ほら」
と自らも拳銃を持ってぶらぶらと揺らす。
「話をしようよ。そうでなきゃ、タイヤを撃つよ」
サフランは舌打ちをし、男の言うとおりにした。ドアから出て、男と向き合う。男はサフランの顔を見て目を輝かせた。ルーも出ようとしたが、「君はいい」と言われ、中から二人を見守った。
「私はダニー。君は?」
「……サフラン」
彼女は用心深く答えた。ダニーは大袈裟に笑うと、
「偽名だね?」
と本名をうながすようにうなずいた。
「あたしはサフラン。それだけでいいでしょ」
「まあいいや。君はここで何を?」
「物資を探してた。何もなかったけど」
「そこにあるのは毛布と、石鹸か。それだけ持ち出そうとしたんだね」
ダニーはトレーラーの中を覗き込んで言う。
「うん。《残されし者》の権利だからね。別にいいでしょ」
サフランは不快さに顔を歪めて答えた。男は意に介さない様子で続ける。
「それは君らのものかなあ」
「は?」
「スュン教徒のものじゃないかと言ってるんだ」
「《残されし者》には全て開かれてるはず……」
「つまり君はスュン教徒じゃないんだ。彼女も?」
ダニーはトレーラーの中のルーを親指で指し示した。
「知らない」
「知らないことはないだろ?」
「いいから、あたしたちをほっといて」
ダニーは快活に笑った。まるでサフランが無邪気なジョークを言ったかのように。
「君はかわいいね。とても美人だし」
サフランが顔をさらに歪める。ダニーは彼女に手を伸ばし、髪を撫でる。サフランは身を縮込めてできるだけ避けようとする。その手はゆっくりと彼女の顔に移動した。妙に温かい乾いた手。
「洗えばさらにきれいになると思うな」
サフランはナイフを男の首に突きつけていた。「やめな」と低い声で言うと、男は驚いた顔をした。少し離れ、また微笑む。
「素早いね。でも、私にそんなことをしたら、私の部下がどうするか」
車が戻ってきた。運転していたのは部下のようだ。先ほどは乗ったふりをしただけだったらしい。ますます状況は困難になる。
「あんたを殺せばいい。そして部下も同じように」
サフランが男にナイフを向けたままそう言うと、男はけらけら笑った。
「その前に私は君たちのタイヤを――」
途端に、乾いた銃声が何度か聞こえた。男の部下が乗った車が耳障りな音を立てながらスピンして、塀に激突する。クラッシュした車の中で、男の部下は血を流して気絶している。そしてルーがサフランを引っ張り、トレーラーに押し込んだ。
「近づくと撃つぞ」
ルーが銃を構えて叫び、男は驚いた顔をした。
「ミセス・エヴァンズ! 僕の言うことを聞け、今すぐ――」
「ミセス・エヴァンズ、旋回して走って! できるだけ遠くへ!」
サフランがマイクに呼びかけると、ミセス・エヴァンズは素早く膨らんで走り出した。砂埃が舞い、男が咳込むのが見える。
「ざまあみろ!」
ルーが気分よさげに叫ぶが、サフランは顔色が冴えない。彼はサフランに触れ、
「逃げられたじゃん。何をそんなに落ち込んでるの」
と訊いた。彼女は彼の手を振り払い、「まずいことになった」とつぶやいた。
「全部殺すつもりだったのにあいつは死んでない。あたしたちはスュン教本部に関係するあのダニーって男に記憶されちゃった」
「でも……」
「それにあいつ、あたしたちのタイヤを撃てるのに撃たなかった。あれ、わざとだよ」
ルーは荷物で半分隠れた後方の窓から残してきた風景を覗き見た。道の真ん中に立っている長身の男は、微笑みながら、満足気にこちらを見つめていた。好奇心に駆られた目で。
サフランは爪を噛んだ。急いでシカゴに行かないと。
サフランはダニーに見覚えがあった。ためらってしまったのはそのせいだ。でも、殺すべきだった。絶対に、殺さねばならなかった。
ルーがそんなサフランを黙って見ている。彼を守るのなら、殺さなければならなかった。




