↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート2
12/40

あの人

 嗚咽を上げて泣いていた。サフランは布団を乱暴にめくり、上体を起こしてしゃくりあげて泣いた。夢であの人を見た。あの人は自分を心配げな、優しい顔で見ていた。あのとき、何もしてくれなかったくせに――。


「大丈夫?」


 隣のルーが起きたらしく、サフランは泣くのをやめた。顔を乱暴に拭き、彼に顔を見られないようにして「何でもない」と低い、まだ涙で潤った声で言った。


「悲しい夢を見たの?」


 ルーの声は優しかった。サフランは窓に顔を近づけ、


「そう、夢を見ただけ。大丈夫。心配いらない」


 と固い声で言った。窓の外は朝日に明るんだ森だ。森の奥から順々に白い光が満ちていくのが見える。じっと見つめているうちに自分を取り戻した。たかが夢だ。現実ではないのだから。


 サフランはベッドから出ると、夢遊病者のような不確かな動きで外に向かった。ルーの心配げな視線を痛いほど感じる。宿の主人にうつむき加減で挨拶を済ませると、ドアを開いた。村の外れの宿は、村へ行く道と、森へ行く道に繋がっていた。そのまま森へ向かう。冷たい空気が体を目覚めさせた。泣いた顔の筋肉が次第に興奮を忘れていくのを感じながら、サフランは深呼吸をした。森の木々から小鳥たちのさえずりの声が聞こえる。


 あれは夢だから、自分は大丈夫だ。




 小さかったミセス・エヴァンズが、膨らんで足をほぐし決まった形に組み立てる一連の動作をし、村人がどよめく。そんないつもの光景を見ながら、サフランはいつもより淡々と彼女に命令をする。彼女はその通りに動き出す。旅は静かに始まった。


 サフランは無口だった。ルーも無理をして話しかけたりしない。二人とも本を読んだ。時折サフランはルーの所有する分厚い本を借りた。しばらく読んではやめ、窓の外の光景を見る。ミセス・エヴァンズが巻き起こす砂埃がもうもうと窓の外を流れ、それがなかったにしても木も草も生えていない裸の岩山が見えるだけだ。緑豊かな西海岸は、もう遠くに離れてしまった。


 西海岸から大陸の内側に向かうには、まず乾いた渓谷を乗り越えなければならない。彼らはヨセミテ近くの村から出発したが、牽引するトレーラーのタイヤの脆弱さを考えて、道らしい道を選んで行く必要がある。彼らはまずフェニックスの街を目指した。作物の育ちにくい内陸部にスュン教徒はほとんど住んでおらず、緑化も進んでいなければ建築物の再利用も進んでいないため、西海岸側と大陸の東側を結ぶためのスュン教の中継地はあるだろうが、誰かと会うことは難しいと思われた。


 ルーは咳を繰り返した。空気はより乾燥していた。彼はサフランがいくら言っても水を節約した。僕はサフランみたいにワインが飲めないから、貴重な水は大切にしなきゃいけないんだよ、と主張する。最初はサフランもそれを聞き入れていたが、次の晩になっても小さく咳込むため、彼女は自分の枕元にあるステンレスのカップを掴み、自分用の水をボトルからなみなみと注いでルーを起こした。一度は拒絶したルーだが、


「もうカップに入れたからボトルには戻せない。あたしは飲まない」


 と断固として言い放つサフランに根負けして、カップ一杯分を飲み干した。それから水の節約はしなくなった。


 アメリカ大陸の美しさは、その雄大さだった。内陸部の乾いた環境は、《冬眠者》の望む植物で溢れた瑞々しい豊かさとは違ったが、二人は食事のたびに通り過ぎた裸の渓谷の力強さを、大地の大きさを知った。


「サフランはこの辺りはよく知ってるの?」


 ルーが訊くと、サフランは言葉を濁そうとして、すぐに考え直したのか、


「一度通ったきりだよ。ミセス・エヴァンズと一緒に通ったんだ」


 とルーに話した。ルーは少し驚いたあと、いつから西海岸で仕事をしているのか、どうして西海岸なのかと質問攻めにした。サフランは笑った。


「二年前に仕事を始めたんだ。一人で生きなきゃって思って」


 それだけ言うと、サフランは黙った。ルーはもっと訊きたそうな顔をしたが、それ以上尋ねることはしなかった。


 カンテラが夜の二人を照らした。オレンジ色の光はルーの顔をより幼く見せた。恐らく彼はまだ十五歳か、せいぜい十六歳だ。サフランは彼の人生経験を甘く見た。彼が《災厄》の影響下に生きて、いかに特殊な生活を送ったにしても、彼女が見てきたティーンたちとさほど違わないだろうと思ったのだ。


「僕ら荒野に二人きりだね」


 ルーが言う。サフランはステンレスのカップに注いだワインを飲みながら、焚火で炙ったコオロギクッキーバーをかじり、うなずいた。焚火は荒野に入る前に集めた枯れ木に火をつけたものだ。これがないと体は温まらない。


「僕とずっと二人でいて、意識しない?」

「しないよ」


 ルーは一気に不満な顔になった。サフランは最後の一口をかじり、包み紙を放り投げる。


「あたしは滅多に人を好きにならない。あんたはかわいいと思うよ。でも、あたしが人を好きになるとしたら、よほど弱ってるときだ」


 サフランが散らかしたクッキーバーの包みを集めて焚火にくべながら、ルーはため息をつく。


「弱ってくれないかなあ……」

「それだとあんたを守ることもできないし、シカゴにも行けないけど」


 ルーは唇を尖らせた。広い世界に二人きり、という状況はよほどルーにサフランへの感情を強めさせるらしい。


「ネッド・ホプキンスは……」

「ネッドは別に恋人ではないよ。つき合ってたときもあるけど」


 ルーはぎょっとして彼女を見た。彼女は平然と彼を見つめる。


「すごく弱ってたときにつき合ってた」

「……そう」


 ルーはうずくまり、長い溜息をついた。それからトレーラーに向かい、中に入るとじっと寝転んでいた。サフランは火が消えるまでそこにいた。小さな焚火は一時間もすると消え、藍色の星空に向かって煙が細く立ち上る中をブーツの足で踏みにじって完全に消してしまい、すっかり寝ついたルーの向こう側の寝袋に潜り込んだ。


 足元のフロントガラスから覗くと、ミセス・エヴァンズが黒いドーベルマンのようにしゃがんでいた。ミセス・エヴァンズはこの間の夢を思い出させた。すっかり立ち直ったつもりなのに、どうしてあの人はこの期に及んで夢に出てくるのだろう?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。