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サフラン・ノート  作者: 酒田青
サフラン・ノート2
11/40

夢

 ルーが最初この旅を始めたとき、いくらか諍いがあった。サフランのトレーラーの中が異様に散らかっていて汚いことも原因の一つだったが、もう一つは本に関する価値観の違いだった。


 曰く、サフランが大麻を吸うのに破くラテン語の辞書が可哀想だとか、サフランがよく読むイエイツの詩集の持ち方が悪いから開き切ってページがそっくり返っているとか、彼が厳選して持ってきた十冊の本をサフランが雑に扱ったとか、ルーはことあるごとにサフランに小言を言った。


 特に彼が大事にしているハードカバーの『蠅の王』をサフランが地面に落としてしまったときの彼の怒りはサフランも驚くほどだった。『蠅の王』と『罪と罰』だけは汚しちゃいけない本なんだよ、と彼は力説した。サフランには理解できなかった。彼女は別に活字嫌いでもなかったが、詩集を何冊か繰り返し読むだけで、本は読めればいい、壊れれば直せばいいという感覚だったからだ。


「そういうさあ、流通量が多かった本はまた手に入ると思うよ。《冬眠者》の残した家に入ればさ」


 彼らの時代の人々は《冬眠者》が大量生産した様々なものを再利用して生活している。サフランの考えも異常なものではないのだが、ルーはらんらんと目を光らせ、


「僕のこの本はこれしかないんだ」


 と言い放った。サフランはやれやれと本を布ではたき、大体きれいになったと思うとルーに渡した。彼はじっと本の角を見つめ、ため息をついた。そして、


「僕の本だけは丁重に扱ってくれよ。僕自身は蹴られたっていいから」


 と諦めたような目でサフランを見つめた。しかしサフランはその言葉の中に、彼が初めて会った日にトレーラーの中で蹴り飛ばされた恨みを未だに抱えている事実を読み取った。もっとも、この日は会って三日目のことなので、そんなにおかしなことではなかった。


 厄介というほどではないが、面倒な人間だとサフランは思った。それでも彼に対する親しみは、次第に増していった。一緒にいることが当たり前になっていくほどに、彼は彼女の隣に馴染んだ。




     ***




 旅を始めて十二日目の朝、サフランはようやくこう言った。今までと同じく小さな村で彼女の配達を終わらせた翌日だ。


「行こうか、シカゴ」


 ルーは目を丸くした。いきなり物事が進みだしたように思えたらしい。サフランは、


「今までの顧客に『しばらく不在』って言って回ってたんだ」


 と小さく笑った。ルーは複雑な感情を抱いているのかかえって無表情になった。


「それってしばらく収入がないってこと?」

「あるよ。あんたの姉さんからもらった一千ドル。今までの報酬も取ってあるし」

「ごめん。……ありがとう」


 ルーが笑わずに言うので、サフランは微笑んだ。


「気にすんな。あたしは自分で生き延びられるし、あんたの命を守るって決めたからにはやらなきゃいけないから」


 それからルーの背中を軽く叩いた。


「まずはセントルイスに行かなきゃ。あたしの知り合いがいるからお世話になろう」

「……セントルイス?」


 ルーは首をかしげた。それから上目遣いにサフランを見る。


「ネッド・ホプキンス……」


 どうやらサフランの深夜の通信を聞いていたらしい。ルーが名前をつぶやいた。サフランは伏し目がちになる。


「ああ、知ってたんだ。話してなかったね。そいつ、その知り合いだよ。ミセス・エヴァンズを一緒に捕まえに行って、彼女を修理して、あたしの命令を聞くようにしてくれた。他にも色々教えてくれたし、本当に助けてくれた人。しばらく話してないけど、元気にしてるはずだよ」

「ふうん」


 ルーがサフランをじっと見つめていた。サフランが首をかしげる。ルーはつぶやく。


「よくしゃべるね」

「そう?」


 サフランはルーの表情を読み取れない顔を見る。


「うん、よくしゃべる。……でも、どうでもいいよ」


 サフランは頭をがりがりと掻き、ルーのいじけた顔に顔を近づける。肩に手を置き、


「多分少し厄介な旅になると思う。時間もかかるかも。でも、一緒に旅するんだから、仲良くしよう」


 と笑った。ルーは唇の端を下げたままうなずく。


「オーケー。仲良くするよ」


 サフランは苦笑いをした。ここは宿の二人部屋だった。二人は並んだベッドにそれぞれ腰かけていた。強いラベンダーの香りがした。寝具に乾燥したラベンダーが仕込んであるのだった。二人はいつも同じ部屋を取った。サフランにとっては顧客を守るためには当然のことなのだが、ルーにとってサフランと同じ部屋で寝るのは初めて姉以外の異性と過ごす奇妙な時間でしかない。ミニトレーラーでの移動中も隣に寝るとあっては、ルーはサフランに特別な感情を抱かざるを得ないようだ。


 困ったなあ、とサフランは思った。ルーの不機嫌さは、彼女の困惑に直結した。しかし、彼女にはどうしようもないのだった。肩甲骨の間をカリカリと掻き、彼女は首を傾げた。




 その晩、サフランは奇妙な夢を見た。


 ハキリアリが大きな葉を切り取っているかのような、ささやかな音が聞こえ続けていた。ハキリアリなんて見たことも聞いたこともないのに、知っている、と思った。その音は次第に大きくなり、スピーカーの音量を最大にしたかのようなジャクジャクという耳障りな音に変わっていった。不安になるような大音量。やがてその音はアブの羽音のように変わり、突然静まり返った。そしてその夢は彼女の全感覚を用いて上映され始めた。


 彼女は動けなかった。じっとしたまま、周りの光景を見つめる。周囲は白い靄で包まれていた。天井には逆さまの都市があった。豪華絢爛な七色のうろこをまとった、タージマハルのように丸みを帯びた城を中心に、碁盤目を斜め四十五度にした街が展開していた。都市には人がいなかった。ただ、城と同じく七色のグラデーションになったうろこ張りの建物がどこまでも広がっていた。建物はチェスの駒のように背が高く、サフランの側から見るとどれも円形だった。無人の街は何故か生き生きして見えた。まるで人がいるかのようだ。


 彼女はそれらがどれくらい遠くにあるのだろうかと腕を伸ばした。驚くべきことに、それは短い赤ん坊の腕だった。丸々とした、皮膚のなめらかな赤ん坊の腕は、力尽きて彼女の顔に当たった。痛い、と思って声を上げると、誰かが近づいてきた。見たことのないシンプルな造形の、淡い色の服を着た女性だった。


「ああ、彼女も目覚めたのね」


 女性は言った。サフランは言葉を発しようとしたがうまく行かない。この夢での彼女は腕ばかりでなく全身が赤ん坊なのかもしれない。


「じきに話せるようになるわ。さあ、皆を呼んでくるわね。あなたに関係のある人だけにするから安心して」


 女性はいつの間にか視界から消えて、しばらくしてデビーが顔を出した。デビーの存在に驚いていると、彼女はくすっと笑った。


「かわいいね」


 サフランが両手を差し出すと、デビーはその小さな手を握って微笑んだ。


「私たちを助けてくれてありがとう。目的を果たすことができる」


 目的? サフランが疑問に思っていると、デビーは横にいる人物に手招きをした。サフラン、かわいいよ、見てごらん……そう言って笑う彼女の横から顔を出したのは、ルーだ。サフランの驚きが倍になる。ルーは、奇妙に緊張した顔をし、本当だね、かわいいね、とささやいた。


「サフラン、僕の言葉わかる? 僕はね、これからサフランに起こることを言っておきたい」


 ルーが言うと、デビーが肩を掴んで「やめときなよ」と言った。


「もう少し経ってから言えばいい。彼女と仲たがいをしたくないでしょ?」


 ルーはぐっとこらえるような顔をした。「そうだね」と言い、サフランの顔を撫でた。くすぐったくて彼女は愉快になった。笑い声が出て、ルーはそれを聞いてとても愛おしそうに笑った。


「最後に、紹介したい人がいるんだ。サフラン、見て」


 デビーが呼んで、そっと顔を覗かせた人。天井の都市を背景にした上下逆さまのその顔に、サフランはひどく驚いた。そのせいで泣き始めてしまった。赤ん坊らしい言葉にならない声を上げ、彼女はその人を追い払う仕草をした……。

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