3話 私のペンネームは君の憧れ
あの日から、放課後の図書室は「私だけの場所」ではなくなった。
「なあ、これ。昨日の続き書いた?」
湊くんが、パイプ椅子を逆向きに座って私の顔を覗き込む。
あの日、私のノートを「すげぇ」と言ってくれた彼は、毎日、部活の休憩時間になると、ここに来るようになった。
私は震える指で、書きかけのノートを彼に差し出す。
「……っ、……つ、……つづき……」
「お、サンキュ。……うわ、やっぱり面白いわ。お前、言葉の選び方がなんていうか……キラキラしてるよな」
湊くんはノートを受け取ると、真剣な表情で文字を追い始めた。学園のヒーローが、私の拙い文字を必死に読んでくれている。その光景がいまだに信じられなくて、胸の奥が熱くなる。
私は鞄からスマホを取り出し、画面を開いた。
昨日、更新した作品についての通知がくる。
『あなたの小説が週間ランキングに入りました!』
『「泣きました」「神回です」――新着コメント15件』
私が匿名で投稿している小説サイト。
そこでは、私の「本当の声」が何千人もの心に届いている。
「……あのさ、羽住」
ふいに湊くんが顔を上げた。
「これ、ノートに書くだけじゃもったいなくね?
どっかに投稿したりしないの? ネットとかさ」
心臓がどきりと跳ねた。
バレる。そう思って、私は慌ててスマホを隠した。
「……な、……な、……ない……っ」
「そっか。まあ、俺だけの秘密ってのも贅沢でいいけどさ。……あ、そうだ。これ知ってるか? 今ネットで話題の『ひふみ』さんって作者。俺、この人の小説めちゃくちゃ好きなんだよ」
湊くんの口から出たのは、私のペンネームだった。
衝撃で、持っていたスマホを床に落としそうになる。
「……え、……あ、……?」
「この『ひふみ』って人の書くヒロインさ、言葉をうまく伝えられない設定なんだけど。……なんか、読んでるとお前のこと思い浮かぶんだよな。不器用だけど、必死に伝えようとしててさ」
湊くんは、そう言って優しく笑った。『ひふみ』の正体が、私そのものだと、彼はまだ知らない。
「……そ、……その、……さ、……さくしゃ……」
「ん?」
「……っ、……す、……す、き……な、の……?」
「ああ。大好きだぜ。……お前のノートと同じくらい、な」
夕暮れの図書室。三秒の静寂が、今までで一番、心地よく感じられた。けれど、その沈黙を切り裂いたのは、湊くんのスマホの通知音だった。
「あ、通知……。待てよ、今『ひふみ』さんの新着記事が……」
彼は無造作にスマホを取り出し、画面をスクロールする。
私の指先が、凍りついた。……しまった。さっき、投稿予約の時間を設定したままだった。
「……あれ? 変だな」
湊くんの眉が、不自然に跳ね上がる。
彼は自分のスマホの画面と、机の上に置いてある私のスマホを交互に見た。
「……羽住。今、お前のスマホも、通知鳴らなかったか?」
私の画面には、作者にしか届かない
『投稿完了』がはっきりと表示されている。湊くんの視線が、ゆっくりと、鋭く、私のスマホへと落ちていく。
「お前……もしかして、『ひふみ』本人なのか?」
喉の奥が、今までで一番大きく詰まって、私は息をすることさえ忘れた。秘密が、暴かれる。肯定しても、否定しても、私の日常はもう二度と元には戻らない。
「あ、……あ、あ……っ」
私がようやく震える唇を開こうとした、その時。
「——見つけた。2人で何してんの?」
静寂をぶち壊す、甲高い声。
図書室のドアが開いていた。そこには、スマホをこちらに向けたクラスメイトの佐藤さんと、そのグループの女子たちが、冷ややかな笑みを浮かべて立っていた。
「羽住さん、湊くんのこと独り占めして……面白いことしてるんだね」
佐藤さんの指が、スマホの録画ボタンを押した。
正体バレの危機。そして、最悪の人物による目撃。
私の世界が、音を立てて崩れ始めた。
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