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2話 太陽の瞳

地獄は、3時間目の国語の時間にやってきた。


冷房の効いた教室のはずなのに、背中には嫌な汗が伝っている。


「じゃあ、次のページ。24行目からを……羽住、読んでくれ」


先生の声が、私にとっては死刑宣告のように響いた。

椅子が床をこする音が、静かな教室にやけに大きく響く。

ゆっくりと立ち上がると、教科書を持つ指先が小刻みに震えた。 文字は見えている。意味もわかる。頭の中では、完璧な発音で再生されている。


なのに。


「つ、……つ……っ……」


最初の一文字。それがどうしても外に出てこない。


 1秒、2秒……。


クラス中の視線が、針のように私の背中に刺さる。


(早くしろよ)


(また「バグ」ってるよ)


そんな無言の圧力が、空気を重く、冷たく変えていく。


「……羽住? 大丈夫か。無理しなくていいぞ」


先生の、同情の入り混じった声。それが一番、私のプライドを切り刻む。私は首を横に振り、必死に喉の石をどかそうとした。


「……っ、……つ、……つぎの、……ひ、……」


たった一行を読むのに、どれほどの時間が経っただろう。読み終えたとき、教室内には「やっと終わった」という残酷な安堵と、いたたまれない沈黙が広がっていた。


放課後。

私は逃げるように旧校舎の図書室の隅へと向かった。

ここは誰も来ない。私の本当の声が、唯一許される場所。

私はノートを広げ、荒い息を吐きながらペンを走らせた。


《「……君に、伝えたかったんだ。私の声は震えているかもしれない。でも、この想いだけは本物だから」》


今日、教室で言えなかった悔しさ。喉に詰まった叫び。それを全部、物語の主人公に託して綴っていく。その時。ガシャン、と激しい音を立てて図書室のドアが開いた。


「っ、くそ……どこだ、忘れ物……!」


入ってきたのは、サッカー部のみなとくんだった。

クラスで一番目立つ、太陽のように笑う人。

私は慌ててノートを閉じようとしたけれど、焦れば焦るほど手元が狂う。


ノートは無情にも床を滑り、湊くんの足元で、よりによって「愛の告白シーン」のページを開いたまま止まった。


「あ、あ……っ……」


終わった、と思った。

笑われる。「喋れないくせに、頭の中ではこんなこと書いてるんだ」って、軽蔑される。私は固く目をつむり、彼がノートを投げ捨てて去っていくのを待った。


「…………すげぇ」


降ってきたのは、嘲笑ではなかった。

恐る恐る目を開けると、湊くんはノートをじっと見つめたまま、純粋な驚きに瞳を輝かせていた。


「これ、お前が書いたのか? ……このセリフ、めちゃくちゃカッコいいな」


「あ、あ……う……か、かえ、し……っ」


顔が火が出るほど熱い。私はノートを取り返そうとしたが、彼はそれをひょいと避けて、私を真っ直ぐに見た。


「お前、喋る時は……その、ゆっくりだけどさ。このノートの中だと、めちゃくちゃ饒舌なんだな。……別人みたいだ」


やっぱり変だと思われた。そう思って俯こうとした私の視線を、彼の言葉が引き止めた。


「……あのさ。俺、お前の言葉、待つの全然苦じゃないぜ」


「…………え?」


「3秒くらいだろ? カップラーメン待つのに比べりゃ一瞬じゃん。だからさ、ノートに書くみたいに、ゆっくり喋ってみろよ。俺、ちゃんと聴くから」


湊くんは、太陽みたいな眩しさで笑った。私の「3秒の壁」を、彼はそんなふうに軽々と笑い飛ばしてくれたのだ。

喉の奥の石が、熱を持って溶け出したような気がした。

「あ……あ、ありが……と……っ」


「おう! ……あ、そうだ。これ、返すわ。……マジで面白かった。特に、この『君が好きだ』ってセリフ」


彼はノートを閉じ、私の手元にそっと置いた。

指先が触れそうになって、心臓が跳ねる。


けれど、彼が立ち去ろうとしたその時。湊くんは思い出したように足を止め、肩越しに私を振り返った。


「そういやさ。お前のそのノート、一番最後のページ……。

あそこに書いてあるのって、実話か?」


身体が、冷たい氷水をかけられたように凍りついた。

一番、最後のページ。


そこには物語のプロットではなく、私が昨日、泣きながら書き殴った「ある人」への、本物の独り言が綴られていた。


誰にも見られるはずがなかった、私の剥き出しの告白。

湊くんの目は、どこか真剣で、射抜くような鋭さを帯びている。


「あ……っ、……あ、あ……」


声にならない。3秒どころか、永遠に言葉が出ない気がした。

彼はフッと口角を上げると、図書室の扉に手をかけた。


「……ま、明日また聞かせてよ。……じゃあな」


初めて名前で呼ばれた衝撃と、秘密を覗かれた恐怖。

去っていく彼の背中を、私はただ震えながら見送ることしかできなかった。

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