1話 私の声は心とはぐれている
■ 執筆の理由について
実は、作者である私自身も吃音の当事者です。
汐里と同じように、言葉が喉でつっかえてしまったり、伝えたいのに「3秒」が待てなくて諦めてしまったり……そんな経験をたくさんしてきました。
「上手く話せないからこそ、文字で届けたい」
「完璧に見える人だって、実は誰かに救われたがっている」
そんな想いを形にしたくて、この物語を書き始めました。当事者だからこそ描ける、リアルな心の揺れを感じていただけたら嬉しいです。
朝、アラームが鳴るより先に目が覚める。
真っ先にするのは、枕元のスマホを手に取ること。画面を点けると、小説投稿サイトのマイページが眩しく光った。
『新着コメントが1件あります』
『最新話にスタンプが贈られました』
匿名で投稿している、私の物語。
そこでの私は、誰よりも自由だ。
何千、何万という言葉を巧みに操り、愛を語り、勇気を叫び、読者を泣かせたり笑わせたりする。
画面の中の私は、淀みなく、流れるように、言葉が止まらない。
「……ふぅ」
スマホを置き、現実の世界に戻るために深呼吸をする。重い体を起こして、鏡に向かった。
「お、……はよう」
誰もいない部屋。練習。
けれど、最初の「お」が喉の奥でつっかえて、空気だけが虚しく漏れた。私の喉には、冷たくて硬い石が居座っている。それは吃音症。
私の声は出口を見失い、いつも私の心とはぐれてしまう。
通学路で自転車を漕ぎながら、駅までの道で何度も何度もシミュレーションを繰り返す。
挨拶をされたら、どう返すか。出席をとられたら、どう返事をするか。普通の人が無意識にやっている「喋る」という行為が、私にとっては綱渡りをするような、血を吐く思いの決死の作業だった。
自転車のペダルを漕ぐリズムに合わせて、頭の中で言葉を唱える。
(おはよう。今日はいい天気だね)
スマホのフリック入力なら一瞬なのに。声にするには、どれだけの勇気がいるだろう。学校の重い鉄扉を開けるだけで、心臓が早鐘のように打つ。
視線を伏せ、目立たないように教室のドアを開けた。
「あ、汐里ちゃん。おはよー!」
クラスの明るい女子、佐藤さんが屈託のない笑顔で声をかけてきた。
(おはよう、佐藤さん。今日の髪飾り、すごく可愛いね)
言いたいことは、一瞬で組み上がる。けれど、いざ口を開こうとした瞬間に、世界が音を立てて止まる。
「お、お……っ、……お……」
喉が痙攣する。肺にある空気が、出口を見失って胸を内側から圧迫する。苦しい。苦しいのに、言葉は出口を見つけられない。
1秒。
佐藤さんの笑顔が、戸惑ったように少しだけ固まる。
2秒。
彼女の視線が、私の震える口元から、気まずそうに斜め下へと逸れる。
3秒。
「……あ、おはよ」
やっと出た言葉は、乾いていて、今にも消え入りそうな音だった。たった四文字。それを出すのに、私は魂を削るような三秒を費やす。
「うん、おはよ!」
佐藤さんは、どこかホッとしたような顔をして、逃げるように自分のグループへ戻っていった。
彼女が悪いわけじゃない。彼女はただ、どう接していいか分からないだけだ。その困惑と、ほんの少しの同情。
その「残酷な優しさ」を突きつけられるのが、何よりも、毒のように痛かった。
(おはようって、言いたかっただけなのに)
私は逃げるように自分の席につき、カバンから一冊のノートを取り出した。
家ではパソコンやスマホ。学校ではこのノート。これこそが、現実世界に持ち込める唯一の、私の聖域。
ペンを握り、紙の上に言葉を乗せていく間だけ、私の喉にある「石」は消えてなくなる。
私はこの場所でだけ、誰よりも自由に、激しく、愛を語ることができる。ここに綴られた「本当の声」を、分かってくれる人なんて、この教室にいるはずがない。
そう思いながら私は、ノートに言葉を綴る。




